えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

謎の家

モーリス・ルブラン、『謎の家』、井上勇 訳、創元推理文庫、1988年(18版)
1928年『ジュルナル』掲載で、翌年刊行。
(文庫のコピーライトは当てにならないとようやく学習。なんで27年になってんだ。)
出だしはなかなか意想外。おもむろに「遺伝」とかで説明つけるところ、
往年のゾラを思い出させます。あとは、そうねえ。
冒頭の「アルセーヌ・リュパンの未発表回想録の抜粋」が面白い。

 私の冒険のいくつかを、できるだけ忠実に物語った既刊のいろいろな本を読みかえしながら気づいたことは、要するに、それらの冒険のいずれもが、私を駆ってひとりの女性の追及に向かわせた偶成的な情熱の結果だったことである。金毛羊皮は姿こそうつりかわったが、私が征服を志したのは、いつでも金毛羊皮だった。そして一方また、そのたびごとに状況は私をして、名前と人柄をかえざる得なくしたので、そのたびごとに、私は新しい生活をはじめ、その以前にはまだ一度も恋をしたことがなく、そのあとでは、もう決して二度と恋をしてはならないといった感銘をうけた。(8頁)

これをして、一話一ヒロイン制度を採用してしまった結果として、相互の関係はどうなってんのかね、
という突っ込みに対する作者の抗弁、と取るのは、さすがに意地が悪いというものか。
それはそうとして、これは実に「要するに」リュパン・シリーズの真をついているのではなかろうか。
さすがはフランス男、と私としても言いたくもなる。
(ちなみに今回のヒロインは、アルレット・マゾール、洋裁店のお針子なり。)
カリオストロ、ソーニア(『リュパンの冒険』)、ドロレス(『813』の二作)、緑の目の令嬢に対し、
ラウール・ダンドレジー、シャルムラス公爵、ポール・セルニン、ド・リメジー男爵がいた、とリュパンは言う。

 すべての人物が、私とはちがい、また、それぞれのあいだでもちがっているように思われる。それらの人物は、私を愉快にし、不安にさせ、微笑させ、苦しめ、まるで、そのくさぐさの恋を生きてきたのは、私自身ではなかったような気になる。(8-9頁)

一つの恋は一つの人生そのものである、というリュパン君の生き方を、究極の恋愛至上主義と呼んでも
よろしいかもしれない。それがひとつ。
私の中には複数の私が、あるいは他人がいる、というそのこと自体について、ルブランは深く突っ込む
つもりがあったとは思えないし、各作品ごとにキャラクター、人格を異なるものとして提示するつもりが、
それほどあったとも、実のところはあんまり思えないのだけれど、しかしルブランの面白いところは、
ラウールならラウール、ペレンナならペレンナと、それがリュパンであるということが読者には
分かっているにもかかわらず、その呼称を断固として続けるところにある。
本作で言えば、これは第一に、自称世界一周を成し遂げたジャン・デンヌリ子爵の物語として語られる。
だからして、彼自身がこういう台詞を吐いたりもする。

「きみはアルセーヌ・リュパンを逮捕しようというのか。ああ、そいつはまた、笑止千万な。だって、きみ、アルセーヌ・リュパンは逮捕できっこなしだよ。デンヌリなら、そういうこともいえるだろう、せいぜい、ジム・バーネットくらいなら、逮捕できるかもしれない、たぶん。しかし、リュパンは。おい、きみはよく考えなかったのか、リュパンとは、なにを意味するか・・・」(258頁)

デンヌリは逮捕できてもリュパンは否。では、この両者の関係は、いったいどのようになっているのだろうか、
ということが、私にはなんとなく気にかかる。
つまるところ、それぞれの作品に登場する人物と、アルセーヌ・リュパンとは
その内面の存在あるいは人格において、一線を画するものがある、ということ、
そのことを、ルブランはあちらこちらで示唆するのである。
それはいったい、何なのか。
なんていうんでしょうか、ことはリュパン君が誰それの人物に「変装」しているだけ、
ということでは全然ない、ということが問題なのだけれど、ここにおいて
固有名詞「アルセーヌ・リュパン」が指し示すのはいったい何なのか、
ということを、これまたなんかうまいこと言えないもんでしょうか。
てなことを思ったりするのである。

リュパンとはね」デンヌリは言葉に力をこめていった。「なんぴとによっても、ことに、きみのような鈍物によっては、けっして愚弄されることを許さない人間を意味する。自分自身にしか従わず、自分が好きなように楽しみ、生活して、司法当局と充分協力はするが、自分流儀に、つねに正しいやりかたで協力する人間を意味する。さっさと退散しろ」(258頁)

へい、退散いたしやしょう。