えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

散り行く花

Broken Blossoms, 1919
引用を二つ。グリフィスについてはこれ。

 メロドラマは、男女の恋愛を物語を通して崇高化します。この人をこれほどまでにこの私は愛している。けれども、この愛に、どうして、これほどまでの障害が降りかかってくるのだろう。でも、この愛は、幾多の障害を乗り越えてきたし、これからも乗り越えていくはずだ。だから、この人を愛するこの私の、この純粋な愛は、神への愛にも似た、美しく崇高なものであるにちがいない。この愛は、だから、善なるものであるにちがいない。そしてこの愛を阻む試練は悪なるものにちがいない。こういった物語論理がメロドラマには貫通しています。メロドラマは、地上の愛を通して、美と醜、善と悪の想像力を掻き立てていくのです。
 グリフィスは、これが好きでした。恋人や配偶者のために自己を犠牲にしてしまう愛。身を賭してまで、悪から子供たちを守る家族愛。そのような愛を映像的に描き上げることによって、近代化のすすむアメリカ社会に、倫理的なメッセージを送ろうとする意志がグリフィスには強くあったようなのです。語る映画に彼が語らせようとしたのは、愛の物語を通しての倫理のあり方だったといえるでしょう。
(北野圭介、『ハリウッド100年史講義』、平凡社新書、2001年(2007年3刷)、54-55頁)

散り行く花』に関してはここが面白い。

 グリフィス監督はバーセルメスをロサンゼルスのチャイナタウンに連れていって中国人の研究をさせたというが、背中を丸め前屈みにオズオズと歩く様子や、横たわる少女をうっとりと見つめて近づいてくるバーセルメスは、どこか傷ついた動物を思わせる。彼はずっと半開きの薄目をしているのだが、じつを言えば中国帽の下にきついゴムバンドを締めて、目をなるべく吊り上げるよう涙ぐましい努力もしていたのである。
村上由見子、『イエロー・フェイス ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』、朝日選書、1993年(2003年4刷)、50頁)

まことに涙ぐましい。まあこういうのはある種の「翻案もの」と考えるべきであって、
どっからどう見ても中国人に見えませんが、というのは言う必要もないのかもしれない。
副題が The yellow man and a girl で 字幕は常にイエロー・マンで、チンクとか普通に
出てくるあたり、要するにその程度の扱いでしかないというのがあからさまであるから、
例外的に中国人が良い者側であるというのは、純然たる作劇上の理由であろう。
下層階級の貧困と、それがもたらす悪(児童虐待)という社会の内側の問題を
外から眺めるための手段として「善良なる中国人」がいる。
(その点で、啓蒙主義時代のフランスと考え方が似ていると言えなくもない)
彼は仏教を広めるという理想を抱きながらロンドンにやって来たものの、
夢破れて今は阿片に浸る日々。
問題はこちら側(イギリスだけど)にある、とする点でたいへん社会批判的であるのは確かで、
まさしく「倫理的メッセージを送ろうとする意志」が認められる。
そうねえ、ここに描かれる中国人の表象を批判的に取り上げることは、今となっては
簡単すぎるし、それだけではだから何なのだという話であり、なおかつ面白くない。
それよりか私もリリアン・ギッシュの作り笑いの哀しさについて語りたい気もするが、
20代半ばのギッシュをして「永遠の少女」とか「究極の乙女」もあるまいて、
とか思ってしまうからいかんのだな、これが。
うーむ、なんとなく、困ったもんだな。