10枚の原稿を一週間で書いたら、11枚になったので、
今日は1日かけて、1枚削るのにたいへん苦労する。
昨年は3日で書けたと豪語していたのに比べて、これは退化なのか。
その可能性は否定できないけれども、下準備の量の違いということもあり、
この度は結論もよく分からないままにおもむろに書きだしたので、
余計に時間がかかった、ということもある。
私もだんだんと薹が立ってきたので、そのぐらいのことはしてみるのだが、
それで一発完成原稿には程遠いところに、道のりの長さがあるのだろう。
なんじゃそりゃ。
まあ、あれです。
私が知っていることなど、並のモーパッサン研究者なら知っていることがほとんどであって、
そうすると「分かっていること」を書いていると、書くにつれて既視感に捕われる
ということにもなりかねない。
この事態を打破するためには、自分の分かっていないことを書かないとしょうがないのであるが、
もちろん原理的に言って、
読んでない本の引用はでけへんのと同じことで、
分かってないことが書けるわけがないのである。
にもかかわらず、自分が分かってないところに自分を追い込むときに、
自分の中で起こっている事態というのは、我ながらなかなか興味深い。
それは、今ここで必要な「言葉」を私の頭がフル回転で探している状況なのだけれど、
その実態は「言葉が湧いてくる」というのにけっこう近いのである。
そうして、湧き出てくる言葉を一つづつ捕まえながらじりじり前進して、
行きつくとこまで行って、振り返ってみると、
なるほど、これが己の言いたかったことでもあろうか、
と、一応はどこかに落ち着くようになっている。
ま、しょせんは自分の頭の中にあるものが出てくる限りにおいて、
そんなに遠いところに一度に行けるわけもないのだけれど。
(結局は他の人は既に知っていたことであるかもしれないし。)
行為としてのエクリチュールは、たんに頭の中にあるものを出すだけではなく、
その場その瞬間における創造的な行為なのだということが、
一時期しきりと言われた業界ではあり、
別に私の言葉に新しいものなど何もないのだけれども、
つまりはこれ「神頼み」ならぬ「自分頼み」の行いなので、
ただもう日ごろの精進にかかっているのだ。
ああ、おそろしい。