えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ピエール・キヤールとレオン・デシャン

 Parmi les écrivains strictement naturalistes, seul peut-être, M. de Maupassant eût le sens de la beauté verbale et du rhythme supérieur : il parle quelque part du mystérieux frisson qui saisit les initiés à la lecture de telles strophes de Baudelaire ou de Leconte de Lisle. Mais, incapable de créer des harmonies aussi puissantes, il se résigna à des œuvres où suffisaient l'intelligence et l'exactitude, et peu soucieux de l'éternel, nota dans une langue claire, sans pénombres merveilleuses, les vanités de ce temps. D'où sa gloire rapide et légitime parmi nous, et l'intérêt qu'il présentera plus tard aux archéologues et aux historiens des mœurs. – Pierre Quillard.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 厳密に自然主義者である作家の中で、恐らくはモーパッサン氏だけが言葉の美と優れたリズムについての感覚を持っていただろう。ボードレールルコント・ド・リールの詩句を読んだ時に玄人を捕える秘密の震えについて、彼はどこかで語っている。だが同じように力強い調和を創り出すことができずに、彼は知性と正確さで十分の、永遠のものについては関心の薄い作品を受け入れ、明るい、驚くべき薄明などのない言語によって、この時代の虚栄を記述した。そこに、我々の間での迅速かつ正当な栄誉と、後になって、風俗についての考古学者や歴史家にもたらすだろう興味との理由が存在する。――ピエール・キヤール

Pierre Quillard (1864-1912)
パリ出身。1884年、サン=ポル=ルーSaint-Pol-Roux エフライム・ミカエルÉphraïm Mikhaël と共に雑誌『プレイヤッド』 La Pléiade を発刊。1890年最初の詩集『言葉の栄光』 La Gloire du Verbe を出版。『メルキュール・ド・フランス』に寄稿する。1893年にトルコに赴き、教職の傍ら、古代ギリシア後の著作を翻訳した。ドレフュス事件ではドレフュス擁護に回る。1900年雑誌『親アルメニアPro Armenia 発刊。以後、弱者擁護のための知識人としての活動に従事した。
なかなかややこしい経歴の持ち主だ。
象徴主義の一員としては一番の好評価かもしれない。
モーパッサンに「言葉の美と優れたリズム」の感覚を見ているのは、ほとんど彼だけである。

 M. de Maupassant aura réalisé cette étrange anomalie d'un écrivain puissamment doué, se donnant tout entier à son art, produisant beaucoup, – et ne laissant rien, sauf peut-être trois pages d'Une vie et une nouvelle : Boule de suif. De l'œuvre, en général, ne se dégage aucun type caractéristique : c'est toujours et trop uniformément bien.
 Le Naturalisme trouve sa vivante condamnation en M. Guy de Maupassant, romancier de talent, styliste assez, mais prisonnier (parfois récalcitrant, témoin le Horla), d'un dogme absolu qui en a fait sa proie. – Léon Deschamps.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 モーパッサン氏は奇妙な異常事態を実現したということになるだろう。すなわち、力づよく才能を備わった作家が、全身を芸術に捧げ、多量に制作し、――何も残さない、僅かに『女の一生』の3頁ばかりと一個の小説『脂肪の塊』を除いては、というものである。作品からは、一般的に言って、どんな特徴的な典型も引き出されない。それはいつでも、あまりに画一的に結構なものだ。
 自然主義は、ギ・ド・モーパッサンの内に自らについての生きた断罪を見出す。才能ある小説家、十分に文体家、だが彼をして自らの餌食とした頑固な教義の(時に『オルラ』が証言するように強情な)虜囚である。――レオン・デシャン

Léon Deschamps (1864-1899)
料理人の息子として父の仕事を手伝うが、1879年に上京後、司法情報誌『ガゼット・デュ・パレ』に入社。自費出版で作品を出版した後、1889年雑誌『プリューム』を創刊。10年にわたって象徴主義運動を支えた。99年、丹毒のために急死。『村落 農民の風俗』 Le Village, mœurs paysannes (1888)等の著作がある。
こちらはまさしく象徴主義側のモーパッサン批判の典型である。
なるほどな。


エコパリのアンケート若者編で最も年長なのは、
ルフレッド・ヴァレット (Alfred Vallette, 1858-1935)であり、
ルイ・デュミュール (Louis Dumur, 1860-1933)
モーリス・ボーブール (Maurice Beaubourg, 1860-1944)
が続く、ということになっているわけなのだけれど、
参考に、次の名前を挙げてみよう。
J. -H. ロニー (J. -H. Rosny, 1856-1940)
ポール・ボンヌタン (Paul Bonnetain, 1858-1899)
ポール・マルグリット (Paul Margueritte, 1860-1918)
ギュスターヴ・ギッシュ (Gustave Guiches, 1860-1935)
リュシアン・デカーヴ (Lucien Descaves, 1861-1949)
1887年8月18日付『フィガロ』紙に、共同署名でゾラ『大地』を批判する記事を書いた
通称「五人組宣言」Manifeste des cinqの著者達は、
俗に自然主義第三世代とも呼ばれる世代に属し、
文壇に出るにあたってゾラの庇護を十分に受けられなかった憾みが、
「ゾラよ、あなたは下品に過ぎる」という批判を吐かせたと、一般に言われている。
(陰にゴンクールとアルフォンス・ドーデーがいた、とも言われたりする。)
しかしこれは自然主義との絶縁を宣言するものでは決してなく、
彼らはその後も多かれ少なかれ、自然主義的な小説を書き続けた。


エコパリのアンケートは、文芸欄の実質的編集長カチュール・マンデスの人脈から、
『メルキュール・ド・フランス』『プリューム』『ルヴュ・ブランシュ』に集う若者達が一堂に顔を揃える場になったが、
もし上記のような小説家の面子も加わっていたら、アンケートの様相はもう少し変わったかもしれない。
つまりこの人選には、新人作家=象徴主義という構図が始めから想定されいて、
彼らの批判が、同時に掲載された当時の大御所連のモーパッサン賛辞と明確な対象を成すのは、
ある種作為的な計算の上でのことではなかったか。
というような疑いがなきにしもあらず、という気がするわけである。
もちろん詩人マンデスの周囲に詩人達が集まっていたのは当然のことで、
彼が特別の意図を持っていたわけではない、のかもしれない。
当の大御所連の中にはマンデス自身も含まれ、彼もモーパッサンを褒めているのであるし、
そもそもマンデスとモーパッサンの関係は古くから良好でありつづけた。
エコパリには晩年のモーパッサンの作品がたびたび掲載されてきたのでもある。
ともかく、このエコパリのアンケートだけから、
当時、自然主義象徴主義の世代間の対立が明確に存在した、ということを帰結するのは、
いささか早計であるかもしれない、ということを一応、念頭に置いておきたい、
という風に思ったのでありましたとさ。