えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ルコント・ド・リール的絵画

リュクサンブールのルコント・ド・リー

またリュクサンブール公園に戻って、この公園随一の仰々しい大作、ルコント・ド・リールの像。
Leconte de Lisle (1818-1894).
豪勢な名前だが、貴族ではなかった。「前の名前」はシャルルであるが、姓だけをペンネームのように使ったので、もっぱらルコント・ド・リールと呼ばれるのであるが、貴族の振りをしたいとう願望が、透けて見えるような見えないような話である。
Denys Pueche (1854-1942) によって1898年に制作。
詩人に張り付いている女性はもちろんのことミューズである。
なんというか、制作者の願望が丸見えのような像ではあるまいか。


段々とハードルがあがっているが、ルコント・ド・リールについて何が言えよう。
古代ギリシャ・ラテンはもとより、北欧からインドの神話にいたるまで該博な知識を散りばめてペダンチックな詩をこつこつと書いた人。
質朴な生活をしながら彫心鏤骨の詩を書き続けたこの詩人は、周囲の者から常に敬意をもって遇されたが、追随者を生むことは絶えてなかった。
語り手の生の感情を抑制して、古代の世界の描写に徹する姿勢は、『サランボー』のフロベールと実に近いものがあった。彼もまた実証主義と科学精神を重んじる時代の人ではあったのだが、現代生活と交わることを拒んだ彼こそは、
「高踏派」の名にもっとも相応しい詩人だっただろう。
エレディアの詩にもそういう面が見られるが、ルコント・ド・リールの詩は絵画的な性質の強いものである。


恐らく、ルコント・ド・リールの詩が体現しているものとは、当時のサロンに飽くことなく展示された、アカデミックな歴史画・宗教画の持つメンタリティーと同質の美意識であると、私には思われる。
詩も壁にかけることができたらよかったのに。
装飾的であり、豪華さに欠くことはなく、教養のある者ならば、味わい深く鑑賞することができるもの。
だが今日、美術館の中では、大多数の観客は、「これは立派なものだ」と一言漏らして、素通りして行くばかり。


大変にお金持ちで仕事する必要もなく、退屈で死にそうな思いをしている貴族か高級ブルジョワで、かつ趣味にうるさいディレッタントなアマチュアでもあれば、瀟洒な製本のルコント・ド・リールの詩集を一冊、ぱらぱらとめくったりするのも悪くはない。(昔はそういう人が少なからずいたのである。)
しかしまあ、要するにそういう人向けのものであるので、日々の生活に追われる今日の文学研究者の大半に、相手をしてもらえなくても、それは、むべなるかなというものである。


芸術とは誰のものか。
民主主義があまねく浸透した現代社会にあって、我々は芸術もまた万民のものであるという風に思いがちである。だがそのような、それ自体一個の信仰であるような考え方が、世に広まったのは、ごく最近のことでしかない。
「庶民」や「大衆」と無縁の高等芸術こそを理想とした芸術家という種族は、つい「この間」まで、確かに存在していたのである。


その意味でいえば、リュクサンブール公園の像は、それが表している典型的な古代趣味の点において、現実とは乖離した、詩人の抱く「理想の自画像」を、申し分なく表象してあげたものである、と、そんな風に言えるのかもしれない。