えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『ベラミ』映画公開に寄せて

人、それを便乗と呼ぶのであるが、
なにはともあれ、映画『ベラミ』の日本公開を祝いたい。
http://www.belami-movie.info/index.html
フランス語でやれ、と言っても仕方ないし。
さて、素晴らしいのは映画化の波及効果である。
(波及効果で仕事が回ってくるくらいに偉くなりたいわ。)
モーパッサン、『ベラミ』、中村佳子訳、角川文庫、2013年
なんと角川文庫からモーパッサンの新訳が出るなんて、嬉しくて涙が出そうだ。いや本当に。
帯の文句は、映画から借りてきたもののようであるが、これが良い。

男は愛がなくても女を抱き
女は抱かれて愛だと信じる

私としてもこれを機に何かしたい、と思って、訳してみました。
モーパッサン 「『ベラミ』批評に答えて」
1885年、長編小説『ベラミ』は日刊紙『ジル・ブラース』に連載、ただちに単行本が刊行されると、あちこちの新聞・雑誌に書評が掲載された。
作家モーパッサンの筆力を評価しつつ、ここに描かれるジャーナリズムの世界は現実に忠実ではない、と批判するものが多かった。
それはつまり、自身が当のジャーナリストである書評家諸氏が、この作品に対してかなり個人的に反応した、ということである。
モーパッサンにしてみればそれこそ思うつぼだったろうと推察されるのだけれど、真情はともかく、彼はそうした批判に対する答弁を、『ジル・ブラース』に書き送ることにした。それがこの記事だ。
その内容をくだいて言えば、要するに、「あんたのことじゃないから安心したまえ」ということである。
映画をご覧になったり、原作をお読みになった方に理解のほんの一助にでもなれば(なるのか?)幸いです。


改めて『ベラミ』を読み返していると、人間関係がずいぶんと殺伐としてますなあ、と素朴に思う。
とりわけ、友人フォレスチエが亡くなってただちに、彼の妻を誘惑にかかるところあたり、これはあんまりな振る舞いだと、相当に普通な反応をしてしまう。

「それでも人生には唯一のことがある。愛だ! 愛する女をこの手に抱くこと! それこそが、人間がぎりぎり得られる幸せなのだ」(233頁)

ベラミの行動の根底にはこのシニスム、ないしニヒリスムがある、と解しておくべきなのだろうし、そこには恐らく、作家モーパッサンの心情にも通じるものがあっただろうが、それにしても、どうなんだ。
それはそうと、この小説のもっとも恐るべきところは、主人公ベラミが悪党である、というところではなく、こやつが悪党ですらない、実にまあ小人物だ、というところにこそある、と私は思う。
だいたい自然主義時代の小説は、主人公に共感を抱かせるようなことを拒絶する方向にあったのだとすると、『ベラミ』はその模範例といってよかろう。
その時、ろくでもない人間の物語を最後まで読ませる鍵はいったい何なのか。
普通、それは、その人物がいかに破滅するのか、に対する期待である。
しかしもちろん、ベラミにはそういう結末は待っていない。
あまりにあっけらかんと終わるので、これは一体何事かと呆然としたりするのだが、先の記事で、この点についてモーパッサンは明確に述べている。

 それでは、何が不満だというのでしょう? 最後に悪徳が勝利するということでしょうか? そうしたことは決して起こらず、有力な財界人の中で、登場の仕方がジョルジュ・デュロワと同じくらいに怪しかった者の名を挙げることなどできないというのでしょうか?

この作品を映画化するにあたっては、一にも二にも、この主人公をどう捉えるかにかかっているように思われる次第である。