えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーパッサン批評文『繊細さ』翻訳

別件で訳文が必要となるが、該当する評論文をまだ訳していなかった自分に腹を立て、一気呵成に翻訳を仕上げる。学祭(のお蔭の休日)に感謝。
モーパッサン 『繊細さ』
なお参照したかったのは次の箇所。

Quand un homme, quelque doué qu'il soit, ne se préoccupe que de la chose racontée, quand il ne se rend pas compte que le véritable pouvoir littéraire n'est pas dans le fait, mais bien dans la manière de le préparer, de le présenter et de l'exprimer, il n'a pas le sens de l'art.
(Guy de Maupassant, "La Finesse" (1883), in Chroniques, U.G.E, coll. "10/18", 1980, p. 304.)
何であれ才能を持った一人の人間が、語られた事柄にしか関心を持たず、文学の真の力は出来事にではなく、それを準備し、提示し、表現する仕方の内にあるのだということを理解しないならば、その者には芸術の感覚がないのである。
(ギ・ド・モーパッサン「繊細さ」(1883))

モーパッサンが「繊細さ」について語るというのはまったく冗談ではなく、この一文にはフロベール伝来の高踏的文学観の中でも最も抽象度、観念度の高い部分が含まれている。「表現と概念との絶対的な一致」「調和と秘密の美の印象」といったものが、モーパッサンの主張する文学作品の根本的価値なのであるが、その実例を彼の作品の中で実際に指摘することはいかにも難しい。かてて加えて、「感じることができない者には理解できるはずがない」と言われるなら尚更である。
それはともかく、ギ・ド・モーパッサンが芸術としての文学について高い理想を抱いていたという事実は、そのことが日本では長らく等閑視されてきただけに一層に、顧みられてよいことのはずである。


昨日、『フランス組曲』を鑑賞。冒頭でフランス語の映画でないことに気づいてがっかりする。今どきまだそんなことでよいのだろうか。しかしながら映画はたいへんによく出来ている。だがしかし原作の翻訳が出て早々に読んだはずなのに、内容をまったく思い出せないとは、我ながら一体何事だろうか。本当にこんな話だったのか。いずれにせよともかく、映画の最後の付け足しあたりは、まったく個人的には不要だったのでないかと思う。いかにもフランス的ではないといいたくなるが、あそこまでやればメロドラマに陥ってしまうのであって、ネミロフスキーの原作の(覚えてないが)美しくも気高い抑制に背くものではなかっただろうか。


脈絡なくモーパッサンの「繊細さ」をもう一度引用して終えよう。

Tel maître, tel valet, dit un proverbe. Tel roi, tel peuple. Si le prince est spirituel, artiste et lettré, le peuple aussitôt devient artiste, lettré et spirituel. Quand le prince est lourdaud, le peuple entier devient stupide. Or, nos princes, on peut l'avouer, ne sont ni artistes, ni lettrés, ni fins, ni élégants, ni délicats. Par « nos princes » j'entends nos députés.
(Ibid., p. 305.)
この主にしてこの下僕あり、と格言は言う。この王にしてこの民衆あり。もしも君主が機知に富み、芸術家肌で教養があれば、民衆もやがて芸術家らしく、教養を得て、機知に富むことだろう。君主が間抜けであれば、民衆全体が愚鈍になる。さて、告白してもよいが、我々の君主たちは、芸術家でなければ、教養もなく、繊細でもなく、優美でもなく、細心でもない。「我々の君主」という語で私が指しているのは、我々の代議士たちである。
(同前)

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