えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「十六世紀のフランス詩人たち」翻訳改稿

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 昨年の4月に描いてみた手描きのモーパッサンを恥ずかしながら掲載。

 それはそうと、ふと思い立ってモーパッサンの評論「十六世紀のフランス詩人たち」の翻訳を改稿する。軽い気持ちで取り掛かったら、けっこうな仕事になってしまった。

モーパッサン 『十六世紀のフランス詩人たち』

 最初に翻訳したのは2006年のことであって、気がつけばもう10年以上経過している(そういえばHPを始めてすでに11年が経ったのでもある)。当時はそれなりに自信を持っていたはずなのに、今読み直すとまことに拙く、いやもう恥ずかしいことであった。全面改稿を経て、少なくとも読みやすくはなったと思うのだけれど、果たしてどうだろうか。お読みいただけたら嬉しく思います。

 さて、結局のところ私はこの文章が好きなのだけれど、それはここに見られるモーパッサンの姿がいかにも初々しいからである。

 そもそもこの評論は、フロベール先生に紹介してもらった新参の日刊紙『国家』において、文芸評論の連載枠を手に入れるための「お試し」原稿として執筆されたものであるが、「フロベールの直弟子」を自任する青年モーパッサンは、自分に評論家としての十分な知識と力量があることを見せつけんがために、全力でこの一文をものしている。

 それゆえにすでに物故して久しいサント・ブーヴをばしばし批判し(対象となっている書籍の初版は半世紀前に刊行されたものである)、あまつさえは勢い余って当の十六世紀の詩人たちまで批判してしまう有様で、ついでにご贔屓のルイ・ブイエの詩をねじこんでみた挙句、最後は本論とぜんぜん関係のないラブレー(これも当時の彼のお気に入り)礼賛でもって締めくくられるのだから、なんというか、ほとんど破れかぶれの観がある。

 確かにここには文学について(フロベールの受け売りとはいえ)すでに一家言を持つ青年作家の姿が窺われるのではあるが、しかし彼にはTPOが見えていないと言うよりなく、この真面目一辺倒の評論をもらった新聞社側もさぞ困ったに違いない。結局、モーパッサンは件の連載をもらうことができないが、それもむべなるかな、いかにも彼には「現場」の経験が足りなかったというところだろう(そういうことは傍目にはよく分かる)。さて、先生たるフロベールの内心は一体いかがなものであったのだろうかと、余計なことまで気にかかるほどだ。

 とはいえ、なにも私は青年モーパッサンをからかって喜んで(ばかり)いるのではない。この「十六世紀のフランス詩人たち」の一文が教えてくれるのは、モーパッサンほどの作家にも「はじめの一歩」はあった、というその事実なのである。その事実の確認は、なんというか、我々に「試みる勇気」のようなものを与えてくれるのではないだろうか。

 試みなければ始まらない、それは当たり前のことだけれども、そんな当たり前のことをあらためて再確認するのも、時には悪いことではないだろう。

 というわけで、初心を思い出しながら、10年ぶりの改稿を行った次第である。