えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『教養のためのブックガイド』/クリストフ・マエ「人々」

『教養のためのブックガイド』表紙

 以前より、推薦図書リストのようなものを探しているわけだが、そうした類のものが難しいのは、そもそもからして多分に教育的意図をもったものである上に、ややもすると威圧的なものになってしまうという理由があるように思われる。

 『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版、2005年

の中に、たとえば、英語圏における「教養のブックガイド」として、ハーバード大教授のヤン・ツィオルコフスキーによって35点、ロマンス語圏としてローマ大教授のピエロ・ボイターニによって41点(冊数ではない)が挙げられている。前者は『聖書』とホメロス(当然『イリアス』と『オデュッセイア』両方)に始まり、独仏英伊西色とりどり、カザンスキ『その男ゾルバ』まで、豪勢なラインナップ。後者もやはりホメロスから始まり、コーランも含めて多様な顔ぶれが並び、最後はプルースト失われた時を求めて』となっている。

 いかにも西洋のハイパー・インテリのご意見はかくもあろうし、彼方にはこれらすべてを読んだと言える教養人が(今でも)いるかもしれないが、しかし幾らなんでもこれでは取り付く島がないというものだ。ここに挙がっている本、『アエネーイス』、『デカメロン』、『神曲』、『ドン・キホーテ』から、『魔の山』、『戦争と平和』、『ユリシーズ』まで、全部を本気で読もうと思ったら、いったい何時間必要なのだろう。これでは「教養」を身につけるだけで一生かかってしまうかもしれない。もちろん、こういう網羅的で模範的なリストに意味がないと言うつもりはないけれど、普通の人のほうを向いたリストでないとははっきり言えるだろう。

 もっとも、私は本書を批判するつもりで書き出したわけではなく、本題はここからである。まず、「座談会 ”教養と本”」の中から、小林康夫の言葉を引用しておきたい。「本でなくてはいけない理由」という見出しの後。

小林 ビジュアルな情報はあっという間に感覚に入る。脳は瞬時のうちにそれを享受することができるわけですけど、文字言語はイメージとは違って、すぐには像が結ばれない。イマジネーションを働かして自分で像をつくり上げなくちゃいけないわけです。実はこれがすごく重要です。効率という意味では非常に悪い。文字から像までには時間的なラグがあって、そこで考えたり想像しないといけない。これはわずかな時間なんですけど、ずれているその間に自分の脳が想像力と思考力を働かせる。そこではじめて言語の運用能力が出てくる。本じゃなくちゃいけない最大の理由がそこにある。それは本以外に考えられません。本はある意味では時代おくれの遅いメディアなんだけど、その遅さのなかに途方もなく重要な精神の形成力がある。

 だから、本を読まないといつまでたっても自分のなかに思考や想像力が育っていかない。最終的には想像する、思考することができなくなる。この二つの重要な能力を失えば、まさに人間は弱体化するので、私はこのまどろっこしさに耐えてもらいたいんですよ。感覚できないものを感覚しようと努力し、よくわからないものを理解しようとして文脈を自分で構成する。この文脈を自分で構成することが、多分知的能力の最大の訓練だと思います。(100-101頁)

 だんだんと私も思うようになってきた。真の読書人たるもの、このご時世にもはや映画や漫画に遠慮している場合ではないのであって、「本でなくてはいけない理由」が存在することを、もっと喧伝するべきなのではなかろうか。これが一点。

 二点目。私が本書でもっとも面白く読んだのは、野崎歓「読む快楽と技術」、187-201頁であり、石井洋二郎「読んではいけない15冊」、203-216頁である。もちろん、ともに仏文の先生であってみれば、私個人の趣向にもっとも近いのは当然のことかもしれないが、贔屓目を抜きにしても、この二つの文章は魅力的だと思う。

 ここではとくに後者について触れるに留めるが、「読んではいけない15冊」のリストがなんとも魅惑的であり、私の探し求めているものの理想の形の一つはここにあるように思う。それはそうと、「もしかすると取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない」(204頁)と言われれば、いよいよ気になる危険な書籍とは何か。以下に、ここに挙げられている15冊をリストして引用させていただきたい。

 なお、便宜上番号をふったが、これは原文にはないもので、特に順位を表すものではないことをお断りしておく。

  1. 大江健三郎『われらの時代』、新潮文庫
  2. ヘンリー・ミラー『北回帰線』、大久保康雄訳、新潮文庫
  3. ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』(上下巻)、生田耕作訳、中公文庫
  4. フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』、江川卓訳、新潮文庫
  5. 埴谷雄高『死霊』(I-III巻)、講談社文芸文庫
  6. フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラ』(上下巻)、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
  7. マルキ・ド・サド悪徳の栄え』(上下巻)、澁澤龍彦訳、河出文庫
  8. ジョルジュ・バタイユ眼球譚』、生田耕作訳、河出文庫
  9. 谷崎潤一郎『鍵』、中公文庫
  10. ウィリアム・フォークナーサンクチュアリ』、加島祥造訳、新潮文庫
  11. ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』、澁澤龍彦訳、河出文庫
  12. アルチュール・ランボー『地獄の季節』、小林秀雄訳、岩波文庫
  13. 原口銃三『二十歳のエチュード』、角川文庫/ちくま文庫
  14. トーマス・マンヴェニスに死す』、高橋義孝訳、新潮文庫(『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』)
  15. ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』、石井洋二郎訳、ちくま文庫

(『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版会、2005年、203-216頁より作成)

 それぞれの書籍についての解説が気になる方には、ぜひとも本文をあたってほしい。

 個人的な話をすれば、私自身も若い頃には刺激と衝撃を求めて本を探したものだけれど、結局、ここに挙げられている作品の多くを読み逃したまま今に至ってしまった。リストを眺めていると、自分の読書遍歴の「健全さ」が気恥ずかしいような、残念なような気分になる。二十歳の頃に出会っていればよかったのにと思う一方、もしそうだったらと想像すると、やはりなんだか心配にもなってくる。はたして無事に生き残れただろうか?

 それを読んでしまったために今ある自分を揺さぶられ、突き崩され、解体され、その結果多少なりとも以前の自分とは異なる自分を発見するのでなければ、いったい人は何のために本を読むのでしょう? ここで紹介したかったのは、もっぱらそういった「美しき惑い」へと読者をいざなう反・啓蒙的な書物なのです。(215頁)

 もちろん読書に遅すぎることはないはずで、今からでも読めばいいのだ。今ならもう大丈夫と油断していると、「自分がそれまで進んできた道を踏み外してしまうきっかけになるかもしれない」(204頁)。そう考えると、決して余裕をもって笑っていられるようなリストではない(かもしれない)。

 

 Christophe Maé クリストフ・マエが2019年10月にアルバム La Vie d'artiste 『芸術家の人生』を発表。その中から "Les Gens"「人々」。

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Et y'a des gens heureux

Des vies tristes qui dorment dehors

Et y'a des gens heureux

Et d'autres qui brassent de l'or

("Les Gens")

 

そして幸せな人たちがいる

外で眠る悲しい人生がある

そして幸せな人たちがいる

富をあやつる者たちもいる

(「人々」) 

『危機に立つ東大』/ガエル・ファイユ「僕は旅立つ」

『危機に立つ東大』表紙
 タイトルを見て最初は「石井先生がそんな本書いちゃだめー」と思ったが、ファンなので黙って購読。

 石井洋二郎『危機に立つ東大 ――入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』、ちくま新書、2020年

 実際に読んでみれば、もちろんこれは時流に乗った浅薄な煽り本などではまったくなく、その正反対に位置する、明晰で確固たる批評の書であった。この著者によってこそ書かれるべき、またこの著者によってしか書かれえなかった本だと言うべきかもしれない。

 本書は、「秋入学問題」、「文系学部廃止問題」、「英語民間試験問題」、「国語記述式問題」という、近年に大学業界を揺るがした事件を題材にしてはいるが、いたずらに「悪役」を突き止めて溜飲を下げることを目的としていない。それぞれの事件の背後に潜む誤謬を剔抉して分析した上で、より全体的で深刻な問題として、今の社会に「人文知」軽視の風潮が見られるのではないかと問うものである。

 したがって、本書第2章において、従来の文系(人文科学・社会科学)と理系(自然科学)という広く行きわたっていながら、実際は恣意的で不正確な分類を改め、「人文知」(人文学)と「科学知」(人間科学・社会科学・自然科学)とに分類し直すこと(79頁)、その上で「人文知」を「人間のあらゆる知的な営みを貫く普遍的な基層のようなもの」(106頁)と捉えるべきではないかという著者の提言はとくに重要だ。この分類が普及すればいいと、私は心から思う。そしてここでいう「人文知」は、ヨーロッパの伝統的な「リベラルアーツ」と同種のものと位置付けられる。今日の大学教育に求められるリベラルアーツは、「獲得したさまざまな知識や技能を具体的な個々の課題に応じて動員し、それらを有機的に関連させながら、既成の限界や制約を乗り越える能力、さらには自由な発想で新たな展望を切り拓く能力」(110頁)だと著者は述べている。

 「人間の知的営為を支える普遍原理としての人文知を教育の場に定着させることに努めなければならない」(111頁)という言葉を、私も大学人の端くれとしてしっかり胸に留めなければと思う。私にはなんとも力不足な大きな課題かもしれないが、それを新年の誓いとしたい。

 

 新年なので、旅立ちの歌を。Gaël Faye ガエル・ファイユの "Je pars" 「僕は出発する」。2013年のアルバム Pili pili sur un croissant au beurre 『バター付きクロワッサンの上のピリーナッツ』所収。

 ガエル・ファイユはブルンジ出身。13歳の時、内戦を逃れてフランスに渡ってきた。ウィキペディアによれば今はルワンダ在住とか。ちょっと訳に自信が持てません。

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Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars pour la saison des pluies
Je pars, hier demain et aujourd'hui

 

Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars, pour un rayon d'ombre
Viens retrouver Colombe mon cœur mort sous les décombres

("Je pars")

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は雨季に向けて旅立つ

僕は旅立つ 昨日、明日、今日と

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は陰った光に向けて旅立つ

〈ハト〉を見つけに来いよ 瓦礫の下で死んだ僕の心

(「僕は旅立つ」)

『林檎の樹』

『林檎の樹』表紙

 ゴールズワージー『林檎の樹』、法村里絵訳、新潮文庫、2018年

 大学を卒業した5月、徒歩旅行に出かけたフランク・アシャーストは、足を痛めて歩けなくなり、近くの農場に泊めてもらうが、そこで出会った娘ミーガンに恋に落ちる。二人は真夜中、花咲く林檎の樹の下で逢引きをし、フランクは彼女に一緒に駆け落ちしようと言い、金を下ろしてくるために一旦、町へと引き返すが……。

 原著は1916年に刊行。下手をすれば鼻持ちならない話になりかねないのに、しっかり最後まで読ませてしまうのは、自然豊かな情景を濃密に描き出せる筆力と、主人公の心理の変化を的確かつ辛辣に辿ってみせる分析力のお蔭だろう。前者については、なんといっても林檎の樹の下での逢引きの場面。動物たちの鳴き声、息づく林檎の花、すべてがあまりにも美しい。

まわりでは、月の魔法にかけられた樹々が枝を震わせている。精霊の存在を感じさせるそんな樹々に囲まれて立っているうちに、アシャーストはすべてに確信が持てなくなってきた! これは、この世の風景ではありえない。ここは現に生きる恋人たちにはそぐわない。この場にふさわしいのは、神と女神、ファウヌスとニンフだけ。アシャーストと田舎育ちの小娘が、こんな場所で忍び会ってはいけないのだ。(71頁)

 まさしく「春と夜と林檎の花」(111頁)の魔法にかかったかのような夢幻的な場面であり、それがあまりに夢のようであるだけに、ひとたび「現実」に立ち返った主人公は、時の流れとともに、自分がそこへ帰ってゆくことが不可能であることを自覚せざるえなくなる。彼は彼として精一杯に誠実であり、彼を追って町に出てきたミーガンの姿を認めた時には、たまらず彼女を追いかけてゆく。しかし、彼女を前にしたところで、その歩みは遅くならざるをえない。結局のところは、身分違いの恋によっては、自分も彼女も幸せになれはしないのだという苦い認識が、彼にミーガンと一緒になることをためらわせ、自責の念に苛まれながらも、アシャーストは彼女を見捨てることになる。「農場に戻らずにいるのは恐ろしかった! しかし、戻るのは……もっと恐ろしかった!」(111頁)という一文に、彼の置かれた状況が見事に要約されている。

 これは幻滅の物語であるが、その幻滅には自分に対するそれも含まれているところがいかにも苦く、この物語を、いたずらに感傷的なものに終わるのを防いでいるだろう。

アシャーストは自分を憎み、ハリディ兄妹を、そして彼らがかもしだす、健全で幸せな、いかにも英国の家庭らしい雰囲気を、憎んだ。なぜ彼らはここに居合わせて、ぼくの初めての恋を台無しにし、自分がありきたりの女たらしにすぎないことを思い知らせてくれたのだ? あの色白の控えめな美しいステラは、どんな権利があって、ミーガンとの結婚はありえないとぼくに知らしめてくれたのだ? 何もかもをくもらせ、ぼくに失ったものを切望するという耐えがたい苦痛を与え、こんなにもみじめな思いをさせる、どんな権利が彼女にあるというのだ?(124頁)

 そのステラと後に結婚することになるのだから、そこには大きな皮肉がある。アシャーストは、いわば人生の門出において大きな挫折を味わうのだ。その経験は、自己の真実を教えることによって、彼の成長に寄与したと言えるかもしれないが、しかしそのために払わされた代償は決して小さくない。ひとたび失われてしまった無垢さは、二度と取り戻すことはできないのである。

 だからこれは青春の喪失の物語であり、主人公の抱く悔恨は、いま青春のただ中にいる者にも、かつて青春を過ごした者にも、等しく胸に迫るものを持っているのではないだろうか。

 

 2019年に書いた記事はぜんぶで36。今年はそれなりにコンスタントには書けて、昨年の19よりは多いが、2017年の40には届かず。来年は40越えを目標としたい。

『あしながおじさん』/シャルル・アズナヴール「世界の果てに」

『あしながおじさん』表紙
 「ガイブン最初の1冊」を探すなかで読んだ本の記録。

 ジーン・ウェブスターあしながおじさん』、岩本正恵訳、新潮文庫、2017年

 これは大学生ジェルーシャ・アボットの自立へ向けた成長の過程が、彼女の書簡によって描かれていく物語だ。ジェル―シャの姿は瑞々しく生彩に富んでおり、真っすぐに生きる彼女はけなげで愛おしい。そこに、この本が長く読まれている理由があるだろう。

 しかし、結果として、彼女は最後まで「あしながおじさん」の完全な保護の下に留まり、そこに、帯に言う「奇跡のように幸せな結末」が成り立っている。そのことに、私は困惑(あるいは苛立ち)を覚えずにはいられなかった。

 原著刊行は1912年、著者は名門のヴァッサー大学(当時はもちろん女子大)卒業後、フリーランスのライターとして生業を立てたというから、当時のアメリカにあっては十分に「進んだ」女性であったのだろう。その彼女が生み出したのが、この「あしながおじさん」の物語であったということ、そのことをどのように評価するべきなのか、今の私ははっきりと断定できないでいる。

 また、この物語は21世紀の現代にあっては、そのイデオロギーにおいてすでに古びてしまったのではないか、というのが個人的な感想なのだけれども、果たしてその意見の正当性はどれほどのものだろうか。それはしょせん、30代半ばのジャービーよりもすでに年を経た、しかも男性である私の価値観がどこにあるかを示しているに過ぎないだろうか。

 改めて考える時、私は「自立」とか「独立」といった観念が自分にとって相当に重要な意義を持っており、自身のアイデンティティに深くかかわっていることを認めないわけにはいかない。私の「あしながおじさん」に対する反発は、偏にその点にかかっていると言っていい。そんな私が想像する、現代版にリライトされた『あしながおじさん』にあっては、ジェル―シャは「あしながおじさん」に決然と別れを告げて立ち去ることだろう。そうであってほしいと、心から思う。

 だが、しかし。「自立」や「独立」を尊ぶという意識も、考えてみればそれ自体、「個人主義」という現代の趨勢たるイデオロギーに依っているに過ぎないのかもしれない。と同時に、自分の価値観を捨てきれない私は、この本の「読者」としての資格を持ちえていないのだろうか、という疑念も拭いきれない。

 おじさま、だれにとっても一番必要な資質は、想像力だとわたしは思います。想像力があるからこそ、人はほかの人の立場になって考えることができます。想像力があるからこそ、人は親切な心と思いやりと理解を示すことができます。想像力は、子ども時代に培われるべきです。けれどもジョン・グリアー孤児院は、想像力がほんの少しでも表れると、即座に踏みつぶしました。義務を果たすことだけが、奨励される資質でした。わたしは子どもが義務という言葉の意味を知るべきだとは思いません。ほんとうに嫌な忌わしい言葉です。子どもはなにをするにも、愛が基本にあるべきです。(131-132頁) 

 いかにもジェル―シャの言う通りだ。100年以上前のアメリカの一人の女子大学生(彼女には身寄りがいない)の「立場」になって考えること、そのことの本当の意味での「難しさ」について、今も考え続けている。

 

 ヴァネッサ・パラディのカヴァーで知った曲。Charles Aznavour シャルル・アズナヴールの "Emmenez-moi" 「世界の果てに」(1967年)。北国の港で働く男が南国を夢見る歌。INAのアルシーヴより、1972年の映像。腕の動きがなんとも言いがたい味わいを生んでいる。

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Emmenez-moi

Au bout de la terre

Emmenez-moi

Au pays des merveilles

II me semble que la misère

Serait moins pénible au soleil

("Emmenez-moi")

 

連れて行ってくれ

地の果てまで

連れて行ってくれ

素晴らしい国へ

太陽の下では、惨めさも

まだましなように思えるんだ

(「世界の果てに」)

『自負と偏見』/ミレーヌ・ファルメール「モンキー・ミー」

『自負と偏見』表紙

 ジェイン・オースティン自負と偏見』、小山太一訳、新潮文庫、2014年

 以前から読みたいと思っていた本を読む。初読。原作が匿名で刊行されたのは1813年。

 オースティンがどれほど上手かも(冒頭のベネット夫妻の会話から、人物が鮮やかに立ち上がってくる見事さよ)、彼女のどこに限界があるのかも(その世界はいかにも狭く限定的だ)、いまさらのように言い立てる必要を認めない。それでもここに一言残しておきたいのは、長らく19世紀フランス文学ばかりに目を向けていた者にとっては、本当にこれが同時代の話なのだろうかと驚くぐらいに新鮮だったからだ。

 驚くことはいろいろあるが、とりあえず一点だけに絞るなら、ここでは結婚における当事者の意志が十分に尊重されている、ということが挙げられる。

 19世紀までのフランスの中上流社会にあっては、結婚とは完全に家と家の結びつきの問題だったらから、縁談をまとめるのは親であり、そこでは身分(家柄)と財産(持参金)が何よりも重要だった。娘は修道院の寄宿学校で大事に育てられ、16、17歳くらいで年の離れた男性と結婚させられるので、恋愛の入り込む余地もない。女性は結婚して初めて一人前と認められるのであり、子どもの一人も出来た後から、社交界の場で初めて恋愛に目覚めることになる。そこに、年上の既婚夫人と独身青年との恋愛が生まれる下地があった。というのが、スタンダール赤と黒』、バルザック谷間の百合』、フロベール感情教育』などを通して、我々が「そうであった」と教えられる19世紀のフランス社会のイメージだ。

 しかるにその同じ時代に、彼の地において、当の若い女性であるエリザベスは、決して家柄がよくなく財産も乏しい家庭の娘でありながら、意に沿わない相手からのプロポーズをあっさり退け、身分も財産もはるかに格上の男性ミスター・ダーシーとの結婚を、当事者同士の意志一つで決めてしまう。唯一の障害は、二人の結婚を認めないという、ダーシーの親戚にあたるレディ・キャサリンの介入であるが、エリザベスはまったくひるむこともなく、相手の批判を受け付けない。

「どうしても甥と結婚するというのね?」

「そんなことは申し上げておりません。わたしはただ、自分の幸せは自分で選ぼうと決心しているだけです。あなたにも誰にも、気がねするつもりはありません。関係のない人たちなんですから」(563頁) 

  この二人の対決部分が本作のクライマックスであり、エリザベスの毅然とした態度は実にすがすがしく拍手を送りたくなる。しかしそれにしても二つの国の間では結婚に到る過程がずいぶん違うものではないか。ああ、レナール夫人、モルソフ夫人にアルヌー夫人よ、あなた方はイギリスに生まれるべきだったとさぞ後悔していることだろう……。

 と、思わず感慨に浸ってしまうが、はたして本当のところ、この差は何を意味しているのだろうか? 確かに『自負と偏見』においても、身分と財産が結婚にあって重要なファクターであることには変わりはない。しかしながら、19世紀初頭のイギリスとフランスの家族制度においては、家父長の権威のあり方に一定の相違が見られたのだろうか? だとすればその理由はどこにあるのか?

 思いつきの仮説① フランスほどに中央集権体制が進まなかったイギリス社会においては、家父長の権威はフランスほど絶対的なものではなかった?

 思いつきの仮説② ここに描かれているのは作者オースティンの、そうであってほしい理想の世界であり、現実の社会とはいささかずれている?

 そもそも、ミセス・ベネットと5人の娘を前にミスター・ベネットは家長としての存在感に欠けるし、エリザベスの結婚を阻止しようとするのが一人レディ・キャサリンという女性であることからして、『自負と偏見』の世界においては明らかに男性の権威が薄い。とことん紳士のダーシーやビングリーにやはり男性性が乏しいように見える点からして、そこにオースティン個人の性向が表れていることは確かなように思われる。

 だがそういうことを言うなら、翻ってスタンダールバルザックフロベールはなんといっても男性作家であり、彼らの描いた世界は根本的に男性の視点によって見られた社会の姿ではないか、という疑念も生まれてくる。結果として偏ったイメージが広く流布することになったという面も否定できないだろう。だとすれば、真実はいったいどのあたりにあるのだろうか……。

 とりあえずここまで。そもそも『自負と偏見』一冊だけで答えの出るような話ではなく、また、以上はまったく素人の感想に過ぎないことをお断りしておきたい。そのうえで、同時代の英仏の互いに近いところ、遠いところに、これから気長に目を向けていきたいと思う。

 いや、小説は小説なのだ。芸術はすべてまやかしである。フロベールの世界も、すべての大作家の作品と同じく、それみずからの論理と約束事と、偶然の一致をもった空想の世界にはちがいないのである。

ウラジミール・ナボコフナボコフの文学講義』、野島秀勝訳、河出文庫、上巻、2013年、345頁)

 

 しつこくMylène Farmer ミレーヌ・ファルメール。2012年のアルバム Monkey Me『モンキー・ミー』のタイトル曲。ほとんど翻訳不可能かと。

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C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

C’est bien ici-bas

Je manque ici

Je manque ici

De facéties

 

C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

Je connais ces pas

Un Monkey Moi

Je suis Monkey... Me

("Monkey Me")

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこに

まさしくこの地上で

私には欠いている

私には欠いている

冗談が

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこで

私はその足跡を知っている

一匹のモンキー、私

私はモンキー、ミー

(「モンキー・ミー」)

『ブヴァールとペキュシェ』/ミレーヌ・ファルメール「悪魔のような私の天使」

『ブヴァールとペキュシェ』表紙

ギュスターヴ・フローベールブヴァールとペキュシェ』、菅谷憲興訳、作品社、2019年

 マラルメは「世界は一冊の書物に書かれるために存在している」と述べた。そのことの意味は、この世界に「意味」をあらしめるのはただ人間の言葉だけであるということだ。人間がいなければ、そして言葉が存在しなければ、世界を意義づけることはできない。言い換えれば、世界を「記述」することこそが人間にとって至上の使命であり、その使命を我が身に担う者が、真に「詩人」の名に値する者なのである。

 大言壮語? いかにもそうだろう。誇大妄想? もちろん、そいう見方もある。だが、我々が人間としてせっせと言葉を吐き続ける生き物である限りにおいて、このマラルメの言葉の内には常に幾ばくかの真実があり、それが我々を魅了し続けるというのもまた事実ではないだろうか。

 『ブヴァールとペキュシェ』について考える時、私にはこのマラルメの言葉が思い出され、フロベールマラルメという二人の作家がどこかで繋がっているように思えてならない。1,500冊を超えるを書物を渉猟した果てに、フロベールはこの一冊の本の中に人類の「知」を丸ごと詰め込もうとした。いわば「人間」を総決算するために。

 マラルメは詩人として実現不可能な「夢」を思い描き、現実にはそのわずかな断片を提示するだけでよしとしたが、小説家であるフロベールは「書物」の実現に正面から挑み、苦闘の末に力尽きて斃れた。マラルメはあくまで理想を語り、「書物」という一大プロジェクトに詩人たちが総動員で取り組んでいるという物語を美しく語った。フロベールは自分の世界を皮肉と諷刺で塗りこめることで、人間の愚かさと哀れさを嘲笑しつつも、幾ばくかの苦い同情を禁じ得なかった。

 いずれにしてもこの二人の作家は言葉によって人間は何をなしうるかという問いに挑んだのであり、その彼らの挑戦によって、我々の実存の可能性は幾らかなりと押し広げられることになったのだと言えるだろう。

 極論すれば、フロベールは『ブヴァールとペキュシェ』を書くために生まれてきたのであり、彼の人生はこの一冊の書物の実現を目指す長い道のりだった。そのように言いたくなるくらいに、この作品はフロベールの「本質」とも言うべきものを表しているように思える。描写の美しさであれば『ボヴァリー夫人』こそが宝庫であり、構成の精緻さという点では『感情教育』に勝るものはないだろう。だが、『ブヴァールとペキュシェ』には作者の血肉化した信念とでも呼ぶべきものが脈打っている。だから読むたびに、ここにこそ真の作者が息づいているという思いに打たれるのである。

  実はこのたび、『図書新聞』第3427号(2019年12月14日)に本書の書評を掲載して頂いた。せっかくなので、その内の1段落を引用しておきます。

 この小説を読んでいると、十九世紀が「知」に取り憑かれた時代であったことをつくづく思い知らされる。自然科学や人文科学が各方面に発展して多くの発明・発見がなされ、無数の専門書が著され、大規模な百科事典が編纂される一方、一般大衆は新聞や啓蒙書を通して貪欲に知識を吸収した。ブヴァールとペキュシェは進歩と発展に魅了された人類の象徴だと言えよう。しかしあらゆる試みに失敗する彼らは諷刺画なのであって、そこにフローベールの苦いアイロニーがたっぷり盛られているのも疑いない。いかに科学が進展しても、理論と実践は食い違い、偶然の作用は避けがたく、あまつさえ理論同士が矛盾しあうのであれば、どうして真理を手にすることができるだろうか。好奇心に駆られてさ迷いながら決して真実の泉には到達できない、そんな「人間」の戯画たる中年男たちの悪戦苦闘はなんとも滑稽であり、本作は抱腹必至の喜劇という一面を備えている。と同時に、刊行から百四十年近くを経て、現代人はフローベールの諷刺から逃れられたのかといえば、なかなかそうとも言い難い。ブヴァールとペキュシェは永遠に我々のグロテスクな写し絵であるのかもしれず、だとすればおちおち笑ってばかりもいられない。

  「19世紀レアリスムの大家が遺した問題作」が、新訳により多くの人に読まれることを願いつつ。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメール、前回のライヴは2013年のタイムレス・ツアー。その時のクリップ。"Diabolique mon ange"「悪魔のような私の天使」は、2010年のアルバム Bleu noir 『ブルー・ブラック』所収。訳してはみるが、正直、よく分かりません。

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Flik flak

Diabolique est mon ange

Tic tac

Plus rien ne nous dérange

La claque

Bien contre lui et tangue

Tic tac

On s’est aimé à s’y méprendre

 

Flik flak

Diabolique est mon ange

Tic tac

Plus rien ne me dérange

La claque

Suis contre lui et tangue

Et là

S’agenouiller et puis s’éprendre…

("Diablique mon ange")

 

フリック フラック

私の天使は悪魔のよう

ティク タク

もう何も私たちを邪魔しない

平手打ち

彼に反して 体が揺れる

ティク タク

愛しあって 騙された

 

フリック フラック

私の天使は悪魔のよう

ティク タク

もう何も私を邪魔しない

平手打ち

彼に反して 体が揺れる

そこで

膝をつき、そして好きになる……

(「悪魔のような私の天使」)

『カルメン/タマンゴ』/ミレーヌ・ファルメール「私は崩れる」

『カルメン/タマンゴ』表紙

 メリメ『カルメン/タマンゴ』、工藤庸子訳、光文社古典新訳文庫、2019年

カルメン』については昔にも何か書いたことがあるなあ、と思い出して読み返すと、2010年の記事だった。

カルメン - えとるた日記

 『カルメン』は自由の象徴だという読みはまあ常識的なものだと思うが、しかしまあロマンチックなことを書いていたものだと気恥ずかしくもある。

 それはともかく、この9年の間に日本で大きく変わったことが確かにあり、それはドメスティック・ヴァイオレンスについての認識の普及だ。率直に言って、今回の再読で私が思ったことの第一は、ドン・ホセは今なら「ストーカー」と認定されるに違いないということである。

 ドン・ホセはカルメンに一目ぼれしたが最後、彼女のために身を持ち崩し、殺人を犯し、密輸人から果ては盗賊へと身を落とす。カルメンはホセを自らのロム(夫)と認めはするが、何より自由を大事にし束縛を拒む彼女であってみれば、自分がホセだけのものになることを受け入れられるはずはないのである。

- Je t'en prie, lui dis-je, sois raisonnable. Ecoute-moi ! tout le passé est oublié. Pourtant, tu le sais, c'est toi qui m'as perdu ; c'est pour toi que je suis devenu un voleur et un meurtrier. Carmen ! ma Carmen ! laisse-moi te sauver et me sauver avec toi.

(Mérimée, Carmen, Livre de poche, 1996, p. 138.)

 

「お願いだ」と、私は彼女に言いました。「道理を分かってくれ。俺の言うことを聞いてくれ! 過去のことは全部忘れる。だがな、おい、お前が俺を破滅させたんだぞ。お前のために俺は泥棒になり、殺人まで犯したんだ。カルメン! 俺のカルメン! 俺にお前を助けさせてくれ。そして、お前と一緒に俺を助けさせてくれ」(拙訳)

 ホセにとって、カルメンは自分のすべてを犠牲にした存在であり、その彼女を失うことは、自己を失うことにも等しい。だから彼にはカルメンを手放すことができない。もし彼女が言うことを聞かないなら、彼女を殺すしかない。それがホセの側の論理であるが、その論理がこの21世紀に一般的に受け入れられるとは言えないだろう。ホセが「俺のカルメン」と所有形容詞をつけてその名を呼び、「俺にお前を助けさせてくれ」と言うところに、カルメンを自分の所有物と見なす思考がはっきりと表れているが、現代においてその見方はあまりに身勝手で独善的なものだと映るのではないか。

 だとすれば、現代人の目にカルメンはどう映るのか? 「魔性すぎる女」? いや、カルメンを「ファム・ファタル(宿命の女)」といった文学史的用語で語るのは、もはや時代錯誤と言うべきではないか、と今の私は思うのだ。

 カルメンは自分の人生を誰に指図されるでもなく自分で決める女性である。今の私たちは「ただそれだけである」と言うべきかもしれない。メリメの時代には彼女のような存在は特殊かつ例外的であり、恐らくは作者自身でさえ、そのような女性の生き方を完全に肯定してはいなかっただろう。作家はあくまで自由を尊ぶ放浪の民、ジプシーの象徴としてカルメンを造形しており、その限りで彼女はいわば民俗学的好奇心と観察の対象であった。『カルメン』は徹頭徹尾「ジプシー論」として書かれており、そのことはカルメンの死、そしてドン・ホセの最後の台詞、

罪があるのはカーレ〔ジプシーの男女〕の連中です。あんなふうに、女を育ててしまったのですから。(工藤庸子訳、172頁)

 の直後に、第4章のジプシー概論が連続していることに明らかではないか。カルメンカルメンたるゆえんは彼女がジプシーであることに求められるのであり、だからこそ語り手はそのジプシーとはいかなる者かを、語らずにいられないのである。

 ドン・ホセが今や現代のストーカーに過ぎないとすれば、カルメンもまた独立独歩する数多の現代女性の一人なのではないか。『カルメン』はもはやエキゾチスムあふれる「異邦の女」についてのファンタジーではなく、我々にとってごく身近で、それゆえに一層に切実な物語になったのではないか。 作者の個人的思想が古びた後に残ったのは、いわば原型としての男女関係の一つの普遍的な様態ではないか。

 以上が、9年ぶりの再読で私の考えたことのあらましだ。

 最後になるが、上記のホセの台詞にはあえて拙訳を付した。以下に改めて翻訳を引用する。

「お願いだ」と私は言いました、「理屈をわかってくれ。おれの話を聞いてくれ! おきてしまったことは全部水に流す。だけどなあ、わかっているだろ、おれの一生を台なしにしたのはおまえなんだ。おまえのために、おれは泥棒になり、人殺しもやった。カルメン! 私のカルメン! あんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょに私の身も救えるようにしてくれ」 

(工藤庸子訳、170頁)

 細部をつかまえて揚げ足を取るような真似はしたくないのだけれど、この決定的な場面でホセが「私のカルメン」というのは、私にはどうしても納得できかねるし、「あんた」という言葉はもう死語ではないだろうか。その点だけが、ごく個人的に、今回の新訳で惜しまれることだった。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメールが2019年に行ったライヴのクリップ。曲は2010年のアルバム Bleu noir『ブルー・ブラック』所収の "M'effondre"「私は崩れる」。すべてを放擲してでも観に行くべきだったのだと後悔しつつ。

www.youtube.com

Je... fais tout un peu

Rien… n’est comme je veux

Me dissous un peu

Me divise en deux

Mais là

 

M’effondre

M’effondre

 

Tout vole en éclat

Mes sens et puis mon choix

Pas d’existence

Mais vivre ma transparence

Mais là

 

M’effondre

M’effondre

M’effondre

M’effondre

 

Jusque là tout va

Jusque là tout va bien

(M'effondre)

 

私は……すべてを少しだけする

何も……思うようにいかない

少しだけ溶ける

二つに分裂する

でもそこで

 

私は崩れる

私は崩れる

 

すべては飛び散る

私の感覚、私の選択

存在はない

でも私の透明を生きる

でもそこで

 

私は崩れる

私は崩れる

私は崩れる

私は崩れる

 

ここまではすべて順調

ここまではすべてが順調

(「私は崩れる」)