田山花袋『蒲団・重右衛門の最後』、新潮文庫、2004年(77刷)
明治34年『野の花』をきっかけに花袋と正宗白鳥との間にちょっとした論争があり、
田山君は「小主観」と「大自然の主観」とか訳の分からないことを言って攻撃されたのであるが、
そのあたりのことは吉田精一『自然主義の研究』に詳しく説かれていてありがたい。
それやこれやで35年に『重右衛門の最後』が書かれ、これがそれまでとは期を画する作品となった
ということは、花袋自身も認めるところである(『小説作法』)。
そういう訳で改めて読んでみる。
枠小説の語りなどはいかにもモーパッサンないし西洋小説に倣っていて、話の語り手が
努めて「傍観者」であろうとしているところに「小主観」に囚われないようにしようという
努力が見えるのであるが、その語り手が最後に重右衛門に同情を感じるところ、
後に作者が認めるように(「事実の人生」明治39年)、蛇足というか、ほとんど致命的に思われる。
重右衛門と彼の女に「自然」を認め、それを村人達の「社会」と対置し、「自然」のままに生きた
前者に肩入れする、というのは理屈としては分からなくはない。しかしたとえ彼の境遇が同情に
値するものであったにせよ、これでもかといわんばかりに他人に迷惑をかけ、十五軒からの家に放火した
男に対して(あまつさえ旧友の家まで焼かれているんである)同情して涙されても、
こちらとしては共感できるものではない。全然自然じゃないんである。
それはそうと、障害を持って生まれ、祖父に溺愛されて育ったという生い立ちに、重右衛門の行動の
理由を確定する手順は、ゾライズムというには大げさながら、リアリズムの手法に則っていると
言ってよく、地方と都会との対比、金銭に絡んだ社会的要件が含みこまれている辺りも、
リアリズムの観点からして評価されてよい(ただ花袋がそうしたことを問題意識として持っていたか
どうかはいささか微妙に思われる)。
この作品にズーダアマンとツルゲエネフとフロオベルとゾラの影響を指摘し、
とにかくこれはツルゲーベール、ゾラデルマンの作といつてもよい。
(吉田精一『自然主義の研究』、東京堂、1955年、上巻、317頁)
という評価には笑ってしまうけれども、要するに19世紀西洋小説の消化の跡が窺われる
ということは確かだ。解説の福田恆存が『蒲団』よりもこの作を評価しているのも、その辺りに由来しよう。
だがしかし、明治39年10月『新潮』の「事実の人生」には冒頭からこう語られる。
小説を書くには、実際自分が遭遇した事とか、親しく関係した事とか、モデルがある方が好いでせう。其方が書いて書きよいばかりでなく、深い価値のある作品が出来る。(略)
「重右衛門の最後」ですか? あれは全く那通(あのとお)りの事があつたので、現に私は其を見ました。そして見た通りを正面に大胆に書いたのです。あの作に表れて居る三人の友人も、私が遊びにいつたのも、火事も、重右衛門も、其最後もソツクリ其儘で、私の作つた所は少しもありません。
(『定本 花袋全集』第二十六巻、臨川書店、1995年、147頁)
とまあ凄いことを言っている。
まあその真偽は今はいいとしても、要するに花袋君は「想像力」より「事実」に重きを置くという
傾向をはっきり示すようになっていく。言うまでもなく、それが『重右衛門の最後』から『蒲団』へ
そして『生』から先へ続くいわゆる「私小説」への方向を決定づけることになる。
結局は「事実をありのままに描く」というところに行き着いてしまうのが彼の「平面描写」であれば
それを夏目漱石に批判されるのもよく頷けよう。
モーパッサンはフロベールに倣って観察の重要性を説いた。花袋も同じように説き、「写生」の訓練を
せよと勧める。だがモーパッサンは「自然」(本当らしさ)の追求のためには技巧が不可欠だと
説く時、花袋は無技巧であることこそ「自然」に近づく道だと考える。一人モーパッサンのみならず
近代西洋文学はとことん主知主義的であるから、見たまんまでは意味はなく、見ることは理解する
ことであり、動機を、根源を突き止める努力をしてなんぼという理屈である。でも花袋君は、たとえ
それを「大自然の主観」という言葉で表現しているのだとしても、白鳥に答えて曰く、
ゾラは仰る通り主観詩人であるけれど、その主観が普通の意味の作者の主観ではなく、寧ろ大自然の面影を有した主観ではあるまいか、私の所謂進んだ主観の下に筆を執つた詩人ではあるまいか。進んだ作者の主観は即ち自然の主観であるとすれば、主観のない自然は即ち所謂模倣、写真なる者である言ふ事は出来ぬであらうか。
(「主観客観の弁」、『太平洋』、明治34年9月、同前、567頁)
なんだか禅問答じみている。彼が「自然」を説くところ、いつでもそれはなんだか曖昧糢糊として
とりつくしまがないと思うのは私だけだろうか。
小説は自然の縮図でなければならぬ。第二の自然でなければならぬ。道徳を没し、倫理を没し、社会を没し、風習を没して、そして正しく社会、道徳、倫理、風習を顧みたものでなくてはならぬ。何故かと謂へば、社会も社会道徳も其根本に於いては、自然の縮図である処があるからである。社会に支配されてはならぬが、自然に背いては駄目である。道徳に盲従する必要はないが、道徳的元素を有する自然に反抗しては駄目である。何でも自然を標準にして、自からすぐれた判断を下さなければいけぬ。
(『小説作法』、明治42年、同前、132頁)
感覚的には言わんとすることは分からないでもない。しかしまあ「道徳的元素を有する自然」って何のことか
とか、具体的に接近を試みるとまるで曖昧だ。
話が大分逸れた。
要するに花袋の自然主義は、文字通り「自然であれ」と要求する主張であろう。重右衛門は彼には
自然たらんとする人物に見えたのであり、自分自身も自然たらんとしたところ、実際問題として
道徳、というよりも社会的保身の壁を打ち破れずに(文字通り)身悶えしまくったのが『蒲団』
になる。ある意味、分かりやすいといえば、これまたずいぶんと分かりやすい話ではなかろうか。