えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モランの豚やろう

Ce cochon de Morin, 1882
それにしても、そういつまでも日本に目を向けているわけにもいかないので、
再びモーパッサンを読むことにしてゆこう、と思う。
その最初がこれというのも何だけれど、長田秋濤がこれを訳して「豚林」(ぶたりん)と題した
というのが、なんとなく気になっていたので。本人も磊落なら、訳も豪傑だ。
11月21日「ジル・ブラース」、モーフリニューズ署名。
1883年『山鴫物語』所収。決定版は1887年。
1883年10月21日、「ラ・ヴィ・ポピュレール」、
1893年3月12日、「ジル・ブラース・イリュストレ」に再掲。
M. Oudinot に献辞があるが、誰に該当するのか不明の由。
3章仕立てで、通常のコントの倍近い分量の作品。冒頭は会話から始まり、
「私」の話相手の「ラバルブ」が、モランは何故「あのモランの豚野郎」と呼ばれるのかの
昔語りを始める。舞台はラ・ロシェル
(ところでコションは確かに豚ではあるが、あくまで「豚やろう」の訳語に固執するべきかどうか。
昔であれば助平とか破廉恥漢とか言うたようなもんだけど(古いね)、なんとしたものか。)
時は1862ないし63年。ラ・ロシェルの mercier (裁縫関係の品を扱う商人)であるモランは、
買出しにパリで二週間を過ごし、歓楽街にも足を運んですっかりのぼせ上ってしまう。
帰宅する日、惜しみながら駅で列車を待っていると、19歳くらいの大変美しい娘が目にとまり、
彼女について、一緒のコンパートメントに同席する。夜行列車は出発し、娘は眠る。
モランはどうやって彼女と関係を結ぼうかとあれこれ考え、一睡もできないまま夜を明かした。
夜が明けて、娘は目を覚まし、モランに微笑みかけた。なんとか声をかけようと焦りながら
一言も出てこないモランは、思い余っていきなり彼女に抱きついてしまう。
その後は当然大騒ぎとなり、モランは取り調べを受けて、翌日ようやく家に帰される。
「私」(語り手ラバルブ)は新聞「シャラントの灯火」の主任編集員であるが、
モランに向かって

「あんたはただの豚野郎だね。人はそんな風には振る舞わないもんだ。」
(1巻644ページ)

と告げる(これが綽名の始まり)。モランは人生の破滅だと言って語り手に救いを求める。
父母のないアンリエット・ボネル嬢は、パリで教員免許を取得後、モゼに住む叔父叔母の家に
ヴァカンスを過ごしに向かうところだった。怒った叔父叔母の訴えを取り下げてもらうために、
語り手は同僚のリヴェと共に、その家へと向かう・・・。


というところでやっと2章の始まりだけど、あとは割愛。
これは確かに、ジル・ブラース向けの、そしてモーパッサンらしい艶笑譚である。
けれど率直な感想では、それほど出来はよくないように思える。それは何故か。
モーパッサンらしいと言えば、
衝動に駆られてたった一度犯してしまった行為が、その人物の後の生涯を決定づけてしまう
という考え方はモーパッサンになじみのものである。「ひも」とか「馬に乗って」とか
がすぐに思い浮かぶ。それが性的衝動である点において、一層モーパッサンらしい、と
あるいは考えることもできるかもしれない(明治時代に浸りすぎた結果でなければ)。
それは、地方に住むプチ・ブルジョアの男性が、2週間パリの喧噪に取り巻かれて興奮した
のが原因だった、という辺りに、レアリスト、モーパッサンの残酷な観察と諷刺が窺われる
とも言えるだろう。
加えて(ここが問題なのだけれど)、娘の家に出かけたラバルブ自身が彼女の魅力の虜になり、
強引に彼女をものにしてしまう、というのも、これまたモーパッサンの小説には他にも例が
なくはない展開である。
どこを切ってもモーパッサンらしいのに、しかし全体の印象はあまりよくないのは、
訴訟沙汰は避けえたものも、「あのモランの豚野郎」の綽名を引っ提げる羽目になった
モランは、その心労でか、二年後にあっけなく死んでしまう一方、語り手ラバルブの方は
彼女との件はそれっきり、ずっと後(1875年)に代議士選挙に出る際、偶然彼女に再会
した経緯を語っておしまい、という展開のせいだろう。
タイトルの「モラン」よりも、むしろラバルブの方に重心が置かれている一方、
後者の方はこれといった結末を迎えないがために、モランの犬死ならぬ「豚死」
にしっかり焦点が合わない。加えて、これを艶笑譚で済ましてしまうには、
今の読者からするとラバルブの行動はちょっと目に余る。
「美男のラバルブ」と地方でも噂の人物とはいえ、やってることは犯罪にとても
近い。美男子が押しの一手で押し切れば、女は最後には受け入れるもんだ
ということなんだろうか。19世紀フランスはそれで通ったのかもしれないけど、
このごりごり男性の視点がうまく相対化されていないので、諷刺ないし批評の
視線が欠落してしまっていることが、たぶん、私にはいささか不満なのだ。
もっとも、モランを「豚野郎」と罵って平気な語り手が、実はモランと全く
同類でしかないという事実に、モーパッサンは読者の目を向けさせたかったのだろうと思う。
だから、本当はこれはこれでよいのかもしれない。
(一人称の語り手に対し、読者がどのような位置に立つかの一般解はたぶん存在しない。
作者があからさまに嫌な奴として語らせれば、読者は共感よりも批判を向けることに
なるだろう。ただその場合、最後まで読んでもらえる保証はないのだ。)
それにしてもやっぱり「豚やろう」はきつすぎる。私としてはここは関西弁で
「あのモランちゅうアホンダラ」
とでもしたいところであるが、果たして「豚林」と比べてどちらがよい「翻訳」であるのか
むずかしい問題である。