えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ロスト・イン・トランスレーション

Lost in translation, 2003
上記書に紹介されている、タフトさんによると、

不慣れな文化的環境に慣れようとする努力の緊張感、もといた環境から根こそぎにされたと感じる喪失感、慣れ親しんだ文化的刺激や社会的地位などを取り上げられたという被剥奪感、新しい環境内にいる人達にもつ劣等感、信念や価値観に対する感覚的混乱、異文化での違いに対する驚き、不快感、不安感、嫌悪感、そして効果的な対応が出来ないために持つ不能感(147頁)

が、カルチャー・ショックの症状であるそうだ。してみるとこの映画、実によくそれを
描けているといってよかろう。すべての症状があてはまるところ、よほど重症ではある。
(ちなみに「不眠」も症状の一つにあるそうな。)
それはそうとこの映画、「日本」の描かれ方に反応してしまう人には拒絶感が強く、
そこを飛ばして主人公に共感できる人には、おおむね評価が高いようである。
もっとも、東京がうまく(美しく)撮れている、という評価もないではない。
なるほど、そういうのはよく分かる気がする。
異国の地に放り出された孤独さと落ち着きのなさはよく出ていて、そんな中で惹かれあう
二人の交流という物語は、それとして、うまく描かれているように思う。
翻訳において失われるものは、ロバート・フロストによれば「詩」だそうだが
(それはまあ詩人なら誰でもそう思うだろうけど)
「翻訳」(通訳)が実際に問題となっているのは、ほとんどCM撮影の場面だけのようにも
思われるのであって、つまるところ異国の地で途方にくれて、自分を失った者が、
同じ境遇にある同国人との間に、コミュニケーションを見出す物語であってみれば、
この人たちにはそもそも「翻訳」が必要となってないではないか、と言いたくはなる。
この映画の舞台が東京であることに必然性と意味があることは十分に認めるけれど、
それは要するにはアメリカと「すごく違った」理解できない土地だという認識が
前提である以上、異文化間コミュニケーションというものは成立しようがない。
それはもちろん本作の問うところではないので、おかどが違う話であって、
これがたとえば上海だったら、私も別にそういうとこに反応もしなかろうから、
自分が「日本人」として観ているんだなあ、と当たり前ながらしみじみ思う。


本作の日本語が字幕にされない、というのも同じことを意味していて、
もちろんそのほうが主人公の置かれた状況をよく理解できるに違いはなかろうが、
そのことによって日本語の分からないすべての人にとっては、日本を知るにせよ
知らないにせよ、「そうそう、日本はこういう(よく分からん)国」と受け止められる
ことになるだろう。少なくともそれが製作者の意図するところである。
それはそれで別によろしい。好ましくもないけど。
しかし日本語母語話者の日本人の私にとっては、
当然そういう観方ができるものではないから、
そうすると、この作品の発するメッセージの読解は、
英語が母語の人と私とでは常に、絶えず異なり続けることになる。
なんのことはない、異文化間コミュニケーションを要求されてるのは私自身のほうではないか。
ここにおいては文字通り、「翻訳」によって失われてしまうものがあまりに多い。
「翻訳の中で道を見失う」
(しかし、もちろんのこと、翻訳されなければそもそも私には理解できないのである)
ロスト・イン・トランスレーションの題は観ている私にこそふさわしいとは、
これまたずいぶんと皮肉な話ではないのか、と。