えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

アメリカ嫌い

内田樹、『街場のアメリカ論』、文春文庫、2010年
を読んで、自分とアメリカのことを少し考える。
二十歳ごろにフランス文学を勉強しようと決めた時の私には、
そのことがなんらかの「政治的」な意味合いを帯びているなどと
考えもしなかった。少なくともそういうのは「昔の話」だと思っていた。
そもそも、あの頃の私はフランスのことだってほとんど何も知らなかったし。
ところで、ある程度フランスについていろんな知識が入ってくると、
だんだんと「アメリカ」嫌いになってくるのですね。
アメリカに対抗意識を燃やすフランスにシンパシー感じる、というのでしょうか。
今の巷にあまりにアメリカのものばかりが溢れていることに、腹が立ってくる
とでもいうのでしょうか。
そうこうするうちに、私はふと気がついたんであるけれど、
アメリカを毛嫌いするこということは、そのことによってアメリカに捕われている
という点において、アメリカが好きであるということと、同根なのではあるまいか。
それは、なんだかむなしいことではあるまいか。
以来、アメリカのことは、とりあえず「どうでもいい」ことの範疇に入れておくことにして、
なんとなく今に至っている。
個人的なことはともかくとして、今のこの国においてフランス文学を勉強しつづける
という営為は、結局のところすこぶる歴史的な条件の中における選択であるのだし、
そのことは個人の意志を超えた、政治的意味合いを持っている、というようなことに
遅まきながらだんだんと意識が向いてくるわけだ。
(そしてそのことは、「アメリカ」なるものの存在と無縁ではない。)
単純な話、日本におけるフランスのプレザンスの低下と、日本におけるフランス文学
人気の低落とは、密接にからみあった事柄でしかありえない。
私は、19世紀のフランス文学に対して個人的な関心を持っているのであって、
その限りにおいて、率直にいえば、今のフランスがどんな国であろうと
別に知ったことではないんだけどね、という一抹の本音を抱えているのだけれども、
もちろんそんな単純に割り切れるものでないことも承知しているつもりではある。
何が言いたいのか自分でもよく分からないけれど、
私は自分の意志でフランス文学を選んだ(つもりだった)のだけれど、実のところは、
フランス文学を選ぶことを状況に強いられた、というような部分が
ないとは言い切れない、ということが、どうにも気になるのである。
というか、そういう自覚ははなはだ鬱陶しいものだ。
私はアメリカを欲望したくないけれど(しないでいられるかどうかは知らない)
フランスだってたぶん欲望したくなかった、のかもしれない。
外国語を学ぶことは、自分が少しでも自由になるための手段である。
日本語しかできないと、日本語でしかものが考えられないけれど、
それはつまり日本語の外に出ることが絶対に不可能だということだから。
それはそうなんだけれど、つまり、なんなんでしょうか。
まるでまとまりがない。
それが今の自分の状態に他ならないということだろう。