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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

プリズム的

土曜日マラルメ
『賽の一擲は決して偶然を破棄しないだろう』は、実質的にはおよそ3カ月で書きあげられ、
1897年5月号の『コスモポリス』に掲載されるが、これは不完全な形だった。
出版者ヴォラールがルドンの挿絵入りの豪華版の出版をもちかけ、
マラルメは方眼紙に印刷用マケットを制作。
校正が5校まで出て校了するも、ルドンの挿絵が進まないうちに、
マラルメが急逝し、計画は頓挫。
1914年娘婿エドモン・ボニエ監修のもとNRFから「決定版」として刊行される。
1980年にはミツー・ロナ監修の、よりマラルメの意図に近い形のものが出版され、
それ以後、あれこれ諸版あり。


コスモポリス』編集部はすは何事かと色めき立ち(かどうかしらないけど)
マラルメは「詩についての覚書」を記し、これが頭に掲載された。
それを読む。
これは「読書の間隔化」espacement de la lecture においてだけ新しいのであり、
そも空白とは韻律法の要請するものであるが、私はそれを拡散させただけなのだ。
問題となっているのは「概念のプリズム的下位区分化」subdivisions prismatiques de l'Idée であり、
その文学的利点は、1頁を同時に目にすることで、
(読む)運動を速めたり遅くしたりすることであるが、
つまりここでは詩句ではなく、頁が基本単位なのである。
(だいぶ適当な要約。なんとなくリシャールを思い出す。去年の夏も暑かった。)
これを声に出して読む者には、楽譜のようなものともなろう。
(これをどこまで文字通りとるかで、要議論。)
私は「詩」のある「状態」を示したのであるが、この試みは、
自由詩、散文詩、という現代特有の追求と共通するものであって、
その両者の結合は、「音楽」の影響のもとにうまれた。
本来「文芸」に帰されるべき手段を、私は取り戻したのだ。
これが、個人の歌声とべつにシンフォニーがあるように、一つのジャンルになるとしても、
私は古代からの詩句への礼賛の念を捨ててはいないし、それこそは
情熱と夢想の王国なのである。
とはいえ、純粋にして複雑な想像、すなわち知性が扱われてしかるべきであるし、
それもまた唯一の源泉たる「詩」から排除されるいわれはないのだ。


とりあえず、読むという行為の直線性を捨て去って、語群と語群、ないし語と語との結びつきの
可塑性を、空間的に表象しようとしたら、そりゃこんな風になりますでしょうが、
というようなことかしら。違うかしら。
ごりごりのくせに難解きわまりない韻文詩を書くかたわら、
複雑怪奇にねじくれた散文を「批評詩」たるものにすべく呻吟していた(かどうか知らんけど)
マラルメのおじさんが、「読む」とはいかなることであるかについて
19世紀的常識をはるかに突き抜けたところで考察しておったということは、
つまりまあ、間違いあるまいや。
さてまあ、しかしここでも立ちはだかるのは理屈と実際との狭間であって、
これが容易に踏み越えられるようなものではないのであるが、
なんにしても読まなければはじまらない。
これほど「読む」ことを挑発するテクストも、そうそうあるまい。
と、息巻くだけは息巻いてみる。