えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

愛撫

Les Caresses, 1883
なんとなく傾向が偏っているのは、伊狩論文をしつこく参照しているためだな。
ジル・ブラース、8月14日、モーフリニューズ名義。コナール版『ロックの娘』所収。
二通の往復書簡。
最初はジュヌヴィエーヴちゃんの手紙。不潔で厭らしいことは考えないで、
ずっとこのまま清い関係でいましょうね、というお手紙。
それに答えるのはアンリ君。

 愛撫とは、奥様、それは愛の試練なのです。抱擁の後で我々の情熱が冷めてしまうなら、我々は騙されていたのです。もしもそれが増すならば、我々は愛し合うようになるでしょう。(1巻953ページ)

ある哲学者(ショーペンハウアー)は言いました。我々に子孫を残させるために、自然は我々に愛と官能とを与えたのだと。
それは自然のしかけた罠だそうですが、罠でも結構! 我々は反対に自然にやり返してやるために、
この罠を利用してやろうじゃりませんか!

 味わい深い愛撫を愛しましょう。うっとりさせるワインのように、口の中に匂い立つ熟れた果物のように、我々の体に幸福を沁み通らせるすべてのもののように。肉体を愛しましょう、だってそれは美しいのですから。だってそれは白くて引き締まっていて、丸みがあって柔らかく、唇の下でも手の下にあっても甘美なのですから。(954ページ)

そうです、道徳家には羞恥心について説教させておけばよろしい。とにかく愛撫を大切にしましょう!
云々かんぬん、3ページにわたる「愛撫礼賛」の手紙である。
そして文末は、お得意のもの。

 この二通の手紙は稲で出来た日本紙に書かれていて、ロシア革の小さな財布に入っているのが発見されたのだが、その場所はマドレーヌ寺院の祈祷台の下であった。昨日の日曜日、午後一時のミサの後で。
モーフリニューズ(956ページ)

うまく訳せないけれど、原文はこの私モーフリニューズが発見しました、という意味。
ちなみに8月14日は火曜日だけれど、14日付の新聞は13日に出るものなので、
すなわち月曜日にこの小説??は掲載されたことになる。
要するに徹底してゴシップ記事が模倣されている。
これは作りもんだよな、というのは、まあ読んでいれば分かるようなものだろうけど、
以前にもこの話はしたけれど、モーパッサンは本当と嘘との挟間で戯れてみせるのであるし、
もっと言えば、嘘を可能な限り本当に近づけ、もはや判別不能のところへまで
持ってゆく、ということが問題となっている(ように思われる)。
で、こういう筋(物語性)のない作品は、決まって作品集には収録されない。
この辺の原則も揺るぎがないのである。
内容に関しては、まず、
愛という至純であるべきものを、感覚とか官能なんていう「汚らわしい」ものと結びつけた
神はなんと意地が悪いのだろう。というジュヌヴィエーヴちゃんの考え方も、
作者自身のそれと決して無縁ではない、ということがある。帰結は「あだ花」こと
L'Inutile Beauté である。
「生殖」は汚らわしい、という見方がどういうところから来るのかうまく説明できない
けれど、なんしかモーパッサンはこの辺にオブセッションを抱えていたりする。
で、アンリ君の「愛撫礼賛」というのはその裏返しの表明である。これもやっぱり
多少なりと尋常とは言い難い面を備えているようだ。
もちろん一義的にはブルジョア道徳をこけにする、という痛快さが読みどころであり、
その限りにおいては深刻な問題を見る必要はないし、
作者自身の深層心理を探ったところで、どうなるものでもない
といえば、ない。
しかしながらモーパッサンの抱える根深いペシミスムが、実はこの作品にもしっかり刻印されている
ということ、言い換えると、現実に対するペシミスムを裏返しにすることによってこそ、
各種の艶笑譚は書かれたのだ、ということ。そのことを確認しておくことは、
まったく無駄なこととも思わない。