えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『女の一生』の草稿について

この話の1が Louis Barthou であるなら、
残りの2から9ぐらいまでは次の本である。
André Vial, La Genèse d'"Une Vie",premier roman de Guy de Maupassant avec de nombreux documents inédits, Société d'édition Les Belles Lettres, 1954.
何故か。
それはこの時点でヴィアルが古書店のご厚意によって閲覧することの出来た『女の一生』の草稿はすべて
その後の行方知らず(のはず)だからである(下記のSを除いて)。
だから率直に言って草稿研究というものは現状これ以上に発展させることはできない。
だが私としては少なくとも事実を確認しておきたいわけである。
モーパッサンの草稿は次のとおりだ。
B バルトゥ記述の「古原稿」ことVieux Manuscrit。114頁で、決定稿でいう1章から4章まで。
F プチ・ブルことレオン・フォンテーヌ所有の24頁。6章(プレイヤッド77-98頁)に相当。
H これはレオン・エニック所有の79枚。三つに分けられる。
H−1 最初の25枚。1から43と頁がふられ、内、9、16、24から39まで欠落。
H−2 次の42枚。1から63とふられた内、2、4、6、9、10、15、16、35から44、46、48から50まで欠落。
ただし47と51は内容的に繋がっている。
H−3 最後の12枚。1から36とふられた内、3、5、6、8から24、27、28、29−32まで欠落。
ぜんぶでほぼ6章から10章(プレイヤッド63-101, 101-128, 128-144)に相当。
CF 12頁。「田舎への訪問」Une Visite de Campagneと題される。
6章の中のエピソード(プレイヤッド69-71頁)で、雑誌「パニュルジュ」の印刷用。
S これはルイ・フォレスチエも閲覧できたもの。アヴァール書店刊本印刷に回された原稿、413頁。
で、このSのうち、241から249まではH2の(欠落していた)35から43頁に、266、267頁はH2の最後に相当する。
(ということは下書きがそのまま本原稿に移されたということか。)
ややこしくて訳が分からなくなる。


問題はこれらがいつ書かれたものかであるが、これもヴィアルは詳しく論じているが結論だけ述べれば、
Bは1878年3月頃から夏まで。
Fは同年秋と推定。
ここで2年の中断があり、
1881年5月頃より再開。H1はアフリカ旅行の後と推定されるのでおよそ11月
H3が書かれたのは1882年の3月頃だ。この時点で10章までほぼ完成。
全体はおよそ5月頃にひとまず完成したと考えられる。


というわけである。ま、当面私にとって問題なのは80年以前なわけだけれど、
つまるところモーパッサンは4章の「ジャンヌ号」洗礼の後の宴会までを書き終えた後で
行き詰ったというのである。具体的には、結婚式、新婚旅行と続く展開がうまく書けなかった。
そこでひとまず間を飛ばして、帰郷後の展開を追ったのがFだが、1879年頭から
転勤に芝居「昔がたり」の上演、そして「脂肪の塊」の執筆、訴訟騒ぎに『詩集』出版の
80年春までは長編どころではなくなった。80年は「ゴーロワ」入社、コルシカ旅行に
『メゾン・テリエ』の準備があり。短編集も出していよいよ地盤固しとなった81年半ば以降、
さあ改めて長編だぁ。ということでそこからは結構な勢いで書き進んだ
というのがおよそ『女の一生』の成立過程となる。


疲れたので今日はこれだけ。