えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーパッサンと上田敏

上田敏の所持していた「オッド・ナンバー」を柳田国男から国木田独歩田山花袋
と借り回し、独歩と花袋がそれぞれ翻訳したのが、ほぼ日本初訳ということで
有名なのである(ということはもう何度も書いたかな)。
備忘録に記しておきたいのは、それより前に
上田敏、「仏蘭西文学の研究」、『帝国文学』、明治30(1897)年8月
というのがあって、そこにモーパッサンが既に出てくること。
そして、上田敏自身も後にモーパッサンの翻訳をしている。
それが『みをつくし』(1901年)に収められることになる「文反古」と「ゐろり火」である。
(これが「えとるた図書館」所蔵第1・2号というわけで。)
加えて、
「かたおもひ」、『芸苑』、明治35(1902)年2月号
というのがあり、「これは椅子直しの女」の訳。


上田敏は当時、最新外国文学事情に最も通じていた人であり、
彼の存在はモーパッサン移入史においても確かに無視できない。
ところで、大変奇妙なことには、
上田敏自身が翻訳した2編は「オッド・ナンバー」には収載されていないのである。
花袋が「食後叢書」を購ったのが1901年である以上、少なくとも「文反古」は
「食後」には依らない、と考えられる。
(原題は "Le Lit" で「ベッド」ないし「寝台」である。文反古ってのは無理な題なんだけど、
書簡体なので、その手紙そのものが「文反古」として見つかった、と言いたいんでしょうか。
ま、「寝台」がタイトルってどうよ、と思ったんだろうな。後に花袋が堂々と「蒲團」を書いた
というのを鑑みるにつけ、センスというのは無視できないものがある。)
じゃあ何なんだ。
ということは、実はよく分かってないぽいのである。
「食後叢書」以前のモーパッサン英訳というのは、実は「オッド・ナンバー」だけではない
という点はもう少し注意されてもよかった事柄だ。
それはそうと、お陰で引用も超べんり。ということで自分で孫引き。

 こがるるものふたり、ひとの世のかどはじめて肌うちあはするもこゝなり。ふるへながらもこよなきよろこびに心まどひてふたりの口はやうやく近よりぬ。嗚呼そのくちづけや、地上の樂園のもん、人間歡樂の歌、すべてを契り、すべてを告げ、すべてを望ましむ。この時、床の海、波さわぎて宛も生あるが如く、ものくるほしくもまた神々しき戀のしわざを祝ひてささやく如く、喜ぶが如し。同じ刹那に、同じ心、同じ願、同じ喜を與へて、天火世を燒き盡さむとするやうに二人をひとりとするこの交ばかり世にめでたきはなく、完きもあらじ。
(「文反古」、『定本 上田敏全集』、第二巻、上田敏全集刊行会、1979年、56頁。 )

人はベッドで生まれ、ベッドで愛しあい、出産もし、そこで死んでゆくから、ベッドとは人生そのもの
なのよ、という一風変わった哲学を語った小説なのだけれど、
なかなかどうして上田敏もがんばっているんである(というのも変な言い方だけど)。
実は初版『みをつくし』ではこの後に続く箇所が伏せ字になっている。
田山花袋は『東京の三十年』の回想で、
上田敏は「モウパツサンは單に明るい藝術的の作家であるやうに言つた」
と言っているけれど、その彼がモーパッサンを「発見」したのと同じ頃には、
敏もまた同様の体験をしていたのであり、そのことが、

短篇の清楚なるもの、奇峭なるもの、深刻なるもの、冷酷の自然力を寫し、悲愁の世間相を述べ、寸毫の嬌飾なく、無用の修辭を卑みたる單稗の類、多く凡俗の痴態、近代の暗潮、殊に愛慾の根かたく、惱多く、しうねく、絶ち難きを題材として、忌憚なき健筆を現代の寫實に用ゐぬ。
(同前、64-65頁。)

という『みをつくし』に入れられた言葉に読み取れるわけである。
もっとも、分かったような分からんような修辞過多な文であるようには思うけれども。
いわく「凡俗の痴態」。
このささやかな紹介文が、当時の読者に与えた影響は如何。
それは必ずしも小さくなかったように推察されるのである。