えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

夜鳥

モーリス・ルヴェル、『夜鳥』、田中早苗訳、創元推理文庫、2003年
ようやく読みました。
そもそもモーリス・ラヴェルと間違えやすい上に、創元推理文庫の棚では「モーリス・ルブラン」の後ろにちょこんとあって、その紛らわしさたるや見逃すこと必至であって、損な名前もあったもんだ。本人にとってはいい迷惑なだけだけど。
それはともかく、開けてびっくり。
なんと時は大正時代、ルヴェルに入れ込んだ田中早苗は『新青年』に翻訳を次々掲載、それを集めて昭和3年に刊行されたのが、本書の元になっているのであった。
よく分からないが、英訳からの重訳ということでよかったか。
さて、モーリス・ルヴェル
Maurice Level (1875-1926)は、医学の勉強をした後、ジャーナリズムの世界に入る。なんでもエレディアの紹介だったとか。
フィガロ』、『ラ・ヴィ・ポピュレール』、『マタン』紙などに書いた。
長編(『レディー・ハリントン』1921が最も有名)の他に多数の中短編を執筆、とはウィキぺディアの記述。
『夜鳥』はLes Oiseaux de nuit, 1913から16編、「他の集や雑誌に掲載されたものの中から」14編(文庫にはさらに+1)を集めたもの。
怪奇というより「恐怖小説」あるいは「残酷小説」というほうがしっくりくると思うのだけれども、とにかくおしなべてどれもこれも暗い。とても暗い。
なんでこんなに暗いんやと思うが、とはいえなかなか切れ味は鋭い。筋も文章も極めて明快で、ばしっと落ちがついて、

もっとも、ルヴェルの作品には、ヴィリエやミルボーのような耽美色はないし、モーパッサンのような人間存在への深い洞察もない。しかし、"文学性"にとらわれぬ直截さ、あからさまな煽情性こそが、この作家ならではの力強さといえよう。(牧眞司、「陰鬱な愉しみ、非道徳な悦び―ルヴェル復活によせて」、325頁)

に全面的に同意する。
もっともあえて比較する必要は別になく、ルヴェルにはルヴェル独自ものがちゃんとあって、それは、嫉妬ゆえ、恐怖ゆえ、貧困ゆえ、悲惨ゆえ、様々な理由によって、人が「残酷」になる瞬間を捉える感性と手さばきにおいて、この作家は確かに傑出しているという、そのことにあるだろう。
「犬舎」「生さぬ児」「麦畑」など、同工異曲ながらいずれも結末は鮮やかで、「闇と寂寞」「暗中の接吻」など、ようこんな話書くわというぐらい凄惨だ。
乞食や娼婦など社会の周縁に生きる者がたびたび出て来て、貧困や惨めさが直接の主題となる場合には、彼らはこの世の「残酷」の犠牲者だといえよう。
「幻想」「フェリシテ」「小さきもの」。「乞食」も痛ましい話。
作者の筆さばきはいたって冷静で、感傷に浸ることがないのがよくて、結末の後に余韻を残す作品も多い。
付け加えておくと、田中早苗の訳文は、よく考えられていることが感じ取れるお仕事で、昭和3年とは思えぬ読みやすさなのも素晴らしいです。
というわけで、ついついルヴェルの絵まで描いてしまう。
ほんまにご当人かどうか、私は責任持ちませんけども。
自筆署名はこちらから拝借して使わせていただきました。
http://homepage1.nifty.com/mole-uni/menu/maurice-level.html
ルヴェルなんか描いちゃって、とか言うてはいけません。


まあ、モーパッサンの後にフランスで短編書いた人は、みんな彼と引き比べられるのが宿命みたいなものなのであるが、たしかにモーパッサンみたいな短編も幾つかある。
とりわけ「孤独」の一編は、モーパッサンの「散歩」とまったく同じ主題を扱っている。
先日の太宰施門をもう一度引けば、

若し彼が理解したかも知れなかつたやうなのが生の現實であり、そこに人が毎日を送りいとなむのであるとしたら何うであらう。陰鬱なペシミスムが心に浸み入つて不揄快に、味氣無く世を過す思ひが誰びとのものともなるに決つてゐる。
太宰施門、『バルザック以後』、山口書店、昭和18年218

というのが、そのままルヴェルに当てはまると言えようか。
「現実」というのは暗いだけのものではないし、ルヴェルはどうかしらないが、少なくともモーパッサンは暗い話しか書かなかったわけではないけれど、しかしまあ「暗い」面というのも確かに存在するのを、誰しも知らないわけではないのだから、そこにあえて視線を向けるか向けないか、向けることに意味があるのかないのか。
その判断は人それぞれである。
モーパッサンはそれを意味あることとした。ルヴェルも恐らくはしかり。
しかし、見ることと、見た結果、悲観するということとは直結するものではない。
暗い話ばかり書いたルヴェル本人は意外に明る人だった、という話を田中早苗が挙げているけれども、モーパッサンも元気なうちは大層陽気だった。
ルヴェルとモーパッサンは、そのような「現実」との対峙のスタイルにおいて、共通するものがあったのかもしれないな、という風に思う。


田中早苗という一人の熱烈な読者を得ることによって、日本でルヴェルは生き残り、今も文庫で手にとることができる。
逆に言えば、田中早苗がいなかったら、とっくに忘れられた作家になっていた可能性は大きい。
そう考えると、ルヴェルは幸運な作家だといってもいいかもしれないし、訳者冥利につきる、というものかもしれない。
この本を読んで一番しみじみ思うのは、実はそのことかもしれないでした。
ルヴェルばんざい。