えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

エミール・ベニュスとタデ・ナタンソン

5日間外出して労働。まだ寒くても春は近い。

 Ce monde-ci, où nous passons, si peu selon la Nature... Ces hommes-ci, si peu selon l'Humanité... Et tant d'âmes vaines ont circonvenu les âmes instinctives, que nous traversons la vie comme des étrangers, sans penser même à vivre.
 Et quand les meilleurs d'entre nous, écœurés enfin de ces virtuoses, de ces vendeurs, de ces sophistes, reprenant les chemins désappris, hors des servitudes mauvaises, s'en revont puiser aux sources lointaines, – l'eau toute pure, l'eau inconnue qu'ils y boivent longtemps, comme un vin trop fort les enivre : et ils expient par la démence leur folle conquête, dont nous aussi nous griserons, – les Gérard de Nerval, les Maupassant... – Emile Besnus.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 我々が過ごすこの世界は「自然」に従えばあまりに些細である・・・。あれらの人々は「人間性」に従えばあまりに些細である・・・。そして余りに多くの虚しい魂が直観的な魂を籠絡するので、我々は人生を余所者のように横ぎっていき、生きることを考えてみもしないのである。
 我々の内の最良なる者は、ついにこの達人達、売り手達、詭弁家達にうんざりし、忘れられた道に戻って、悪しき従属から逃れ、遠くの泉へ水を汲みに再び出かける。――まったく純粋な水、未知なる水をそこで彼らは長い時間をかけて飲む。強すぎるワインが彼らを酔わせるように。そして彼らは精神錯乱によって、彼らの狂気じみた征服の報いを受けるのである。その征服に我々も陶酔するのではあるが。それが多くのジェラール・ド・ネルヴァル達、モーパッサン達である・・・――エミール・ベニュス

Émile Besnus (1867-1897) についてはよく分からない。
早くに亡くなり、詩集『イシスの船』Le Navire d'Isis が1899年に死後出版されている。
「狂気」を一種の精神の危険な冒険の帰結とする見方は、
ロマン派の影響を含んだ19世紀のある種の「神話」かと思う。
ネルヴァルとモーパッサンの名を並べているのはいささか興味深いところではある。

 Déjà les dernières productions, moins fantastiques qu'affolées, avaient pu respectueusement apitoyer sur le sort du pauvre Maupassant : à présent, incomplet peut-être, il va servir aux critiques. Et, à part de banales condoléances il est à prévoir qu'on le sacrifiera si on ne l'éreinte, puisque son malheur aura voulu qu'il ait appliqué son talent – très valable – à une esthétique qui ne trouve plus guère de défenseurs. – Thadée Natanson.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 既に最後の頃の作品は、幻想的というよりも錯乱したもので、哀れなモーパッサンの運命に敬意のこもった同情を引きえたものだった。今日、恐らくは不完全なままに、彼は批評家に奉仕することだろう。そして平凡な弔辞は別にして予想されるのは、彼は酷評されるのでないとすれば、犠牲にささげられるだろう、ということだ。それというのも、彼にとって不幸なことに、彼は自分の才能を―それはとても価値あるものであるが―もはやほとんど擁護者のいないような美学に適用させたからである。――タデ・ナタンソン

Thadée Natanson (1868-1951)
ポーランド系移民の銀行家の子息。1889年、兄弟と共に雑誌『ルヴュ・ブランシュ』を創刊、実質的に編集長を勤めた。妻ミシアMisia(後のミシア・セール)とともに美術愛好家として多くの芸術家をサロンに集めた。ドレフュス事件の際にはドレフュス擁護に回る。1898年結成の「人権擁護連盟」Ligue des droits de l'homme 創設者の一人。雑誌は1903年に廃刊に追い込まれ、1905年の離婚後は主に実業家として過ごした。
『ルヴュ・ブランシュ』は『メルキュール・ド・フランス』と共に、
世紀末文藝の新しい運動を支え、一時代を画した存在、ということでよかったかしら。
「もはや擁護者のいない美学」とは自然主義のことであろう。
自然主義vs象徴主義という構図はここでも明確である。
「立ち場」は分かるが、しかし若い皆さん、なんだか薄情ねえ、
とまあ素朴な感想を抱くばかりかな、と。
それはともかく、カチュール・マンデス(1841-1909)という人は、
ゾラの一つ下、モーパッサンより9歳上であり、この時もう52歳なのであるが、
その人脈の広さたるや、20代そこそこのほとんど無名の若者までを含めて、見事なものだ。
社交と美学とは別物だということか。あるいは美学より社交の人だったのか。
なんにせよパトロンとして幅を利かせておったということであるが、
それにしても大したものだと思うのでありました。