えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

クリスチャン・プリジャン

Christian Prigent, "Maupassant mouche à merde", in Salut les anciens. Salut les modernes, P.O.L, 2000, p. 71-83.
故あって読んだので記録。久し振りにたくさん辞書を引き、二読三読して
ようやくなんとなく分かったような気になる。
とりあえず、モーパッサンの作品にはなんだか不安にさせるもの、理解できないもの、
あるいは非理性的なものがそこかしこに顔を出す。そのことについてここ三十年ばかり
いろんな形で論が出されてきた。あるいは狂気と呼ばれ、あるいは精神分析を応用する形で
無意識に抑圧されたトラウマ(という言い方は正しくないのかな)として。
ブルジョアイデオロギーの媒介伝達装置のしてのレアリスム言説、というのが構造主義時代の
レアリスム批判の骨子であり、「自然さ」を装う、実際のこところ人為の塊のレアリスムのディスクール
こてんぱんに批判する点でヌーヴォー・ロマンとヌーヴェル・クリティックは共同戦線を張ったのであった
と思う。
で、ここ三十年の新しいモーパッサン読解の試みは、それ自体、
上記のレアリスム批判からモーパッサンのテクストをどのようにして救い出すかの試みでもあった。
というか構造主義の洗礼を受けた後の世代の研究者の関心はおのずとそういう方向に向かった
という話がある。
件のプリジャンの論はその時代の流れに棹さすものであって、それもそのはず初出は1980年の
「リテラチュール」誌、37号だ。今読むと、ある意味なんだかすごく懐かしい感じがする。
「テクスト読解」が功罪ともかく生き生きしていた時代というのがフランスにはあったのである。
さてプリジャン(1945年生まれの先生にして作家)の論のお話。
お題は「べロムとっつぁんのけだもの」。
「脂肪の塊」同様に、ノルマンディーの田舎を走る乗合馬車で物語は展開するのだが、
乗客の一人のべロムとっつぁんの耳から「けだもの」が頭に侵入、とっつぁん大騒ぎで
すったもんだの挙句、耳から水を入れて追い出して、出てきたのは一匹の蚤だった、というお話。
面倒なので(というか手に余るので)正確な要約でもなんでもなく述べれば、
馬車の移動=物語の滞りない進行を妨げるのが、
目に見えない「何物か」の闖入である、という点に焦点を絞り、
その何物かとは何なのか(メタフォリックに、あるいはサンボリックに)ということを
テクストに溢れるシーニュの自由な「読解」プラスフロイトの(これも自由な)援用によって
読み解いてみるとどうなるか、というお話である。
「におー、におー、におー」と叫ぶとっつぁん及び村人たちの語るノルマンディー方言は
正統なフランス語から甚だしく逸脱し、そこにも一種非理性的なものが侵入している、
という点も見逃してはなるまい。つまりテクストそれ自体が、「異物」の侵入による混乱と
それを排斥することによってもたらされる秩序の回復を語っているのである。
では異物とは何か。
あるいは狂気、あるいは無意識、あるいは身体の健全な維持を阻害する「排泄物」。
つまりは「私」の内にある「他者性」に他なるまい。
自然主義者」モーパッサンが「自然な」物語、「自然な」エクリチュールの中で
恐らくは無意識に描いたもの、
むしろ描くことによって、悪魔払いのようにテクストの外に排斥しようと試みたもの。
モーパッサンが残した無数の短編小説はすべからくこの、内なる「他者」の召喚と排斥
によってもたらされるところの不安定な自我の安定を語っている
というところまではプリジャンは持って行ってはいないのだけれど、精神分析応用論は
おおむねそういうところに行き着くものであるようだ。
それにしても「モーパッサン、糞まみれの蝿」(違うか)とは難儀なタイトルなこと。
こういう読解は「あり」だし、整合性がとれていないこともなく、説得力があるといってもいい。
しかしもうちょっと読みやすくは書けないものなのか。
その点だけはもうちょっとなんとかならんかったのかと思う、忌まわしき70年代であることよ。