えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

小説論とミメーシス

ところで細々と「小説論」の話を続ける。
とりあえず「ロマン主義」と対立される「レアリスム・自然主義」小説の理念が
初期モーパッサンの作品に適応可能であることは一応確かであろう。

 反対に、人生の正確なイメージを与えると主張する小説家は、例外的に見えるような出来事の連続を注意して避けねばならない。彼の目的は一つの物語を語り、我々を楽しませたりうっとりさせたりすることでは全くなく、出来事の裏に隠された深い意味を考えさせ、理解させることである。

女の一生』も『ベラミ』も、まさしくそういう小説として書かれたものだ(ということは、逆に
この文章から演繹されることであるのかもしれないけれど)。
文章はこう続く。

大いに見て、大いに考えたお陰によって、彼は世界、事物、事柄や人間を、彼固有の、熟慮された観察全体から帰結されたある特定の仕方によって眺める。この個人的世界観こそ、一冊の書物の中にそれを再現することで彼が我々に伝えようとするものなのである。

フランスのディッセルタシオン用暗記文句として名高い「個人的世界観」はここに出てくる。
文学作品は作者の個人的世界観の表明だ、といわれると、なるほどそうだと思うものではなかろうか。
ここで注意したいのは、作者が「再現」の語を使っていること。原文を引いておこう。

C'est cette vision personnelle du monde qu'il(romancier) cherche à nous communiquer en la reproduisant dans un livre.
(Maupassant, "Le Roman", in Romans, Gallimard, coll. "Bibliothèque de la Pléiade", 1987, p. 706.)

そして文はこう続く。

彼自身が人生の光景に感動を受けたのと同じように我々を感動させるためには、彼はその人生を綿密な類似さで我々の眼前に再現しなければならない。従って、彼は作品を大変に巧妙に、目立たない仕方で組み立てねばならず、表面はあまりに単純なので、そのプランを察知し、それと指摘したり、作者の意図を発見したりするのは不可能となるだろう。

ここでモーパッサンは、もう少しはっきり、「人生」la vie の「再現」として「小説」を語っている。
この後の論旨は、ただの「写真」のような平板そのままの「再現」ではなく、選択・構成・文の吟味という
「芸術」が必要であることを説くことにある。だがしかし根本的には
実人生→推敲→作品という限りにおいて、いわば「芸術的再現」として「小説」は考えられている
ように見える。
それがいいとか悪いとか、正しいとか正しくないということではなく、
モーパッサンもまたレアリスム小説を語る際には、暗々裏に「ミメーシス」の概念に依拠している
というかそういう語法で語ってしまっている、ということは確かなのだ。
アリストテレスである。そしてアウエルバッハの名著の誉れ高い『ミメーシス』の呪縛によって
20世紀後半のレアリスム=ミメーシス批判は展開されることになった、あれである。
もちろん、モーパッサン自身の理念はあくまで「ヴィジョン」の問題にあり、客体としての世界の
リアルな「再現」というような素朴なことは(全体として)彼はまったく述べていない。
だけれども、ここに根本としてあるのは次のことで、すなわち、
表現(再現)すべき何か(イメージないしヴィジョン)が先にあり、言語はそれを
翻訳ないし再現する手段(道具)として(のみ)存在する。ミメーシス理論の前提にあるのは
そういう(モノの名前としての)古典的言語観だ。
ある物を表現するためには、それを完璧に表す唯一無二の言葉が存在する、という考え方も
同じところに由来するわけで、おお今度はジュネットか。それはともかく、
モーパッサンの言語観はたいそう伝統ある思想にしっかり根づいている。
ということは正しく確認しておくべきであろう。
だから何なのか
はまだよく分からないのだけれども、とにかくここの箇所はずっとしこりの残るところなのであるので
メモ書きに残しておく。
とりあえず言えることには、
レアリスム=ミメーシス=現実の「再現」という図式は今日成立しないし、
させてはならない。21世紀にレアリスムを語る時の根本的にして最重要な命題はそこにある。
レアリスムをミメーシスの概念とは切り離して論じることによってのみ、今日、
レアリスムを語り直すことは可能となる。
つまりはモーパッサンの言い分=「小説論」と、モーパッサンの作品を論じる「私」の視点とは
相互に独立したものであり続けねばならない。
そのことを、たぶん、私は自戒として記したかったのかもしれない。