えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『三つの物語』/ジュリエット・アルマネ「独りの愛」

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 今になって改めて『ボヴァリー夫人』を読み直すと、フロベールが自分の登場人物を甘やかさないためにどれだけ必死になっていたかが、しみじみとよく分かる(ような気がする)。彼はエンマやレオンやロドルフやオメーにせっせと「紋切型」をしゃべらせる。そしてエンマを口説くロドルフには農事共進会の賞品授与の台詞をかぶせ、逢引きに待ちきれないレオンには鈍感な守衛をつきまとわせる。お人よしの夫は我知らずにせっせと妻の不倫を準備し、苦しむエンマが救いを求めて教会に行けば物質的なことしか理解できない司祭が待っている。あまつさえは臨終の際にエンマが耳にするのは乞食の歌う俗謡であり、通夜の最中には司祭と反教権主義のブルジョアが喧嘩の挙句にいびきをかいて眠る。かように全編いたるところ、作者のアイロニーが滲み出ているのであるが、そのようにして自己の内の「甘さ」を徹底的に批判することによって、フロベールは成熟へと達し、一人の作家が誕生したのだと言えるだろう。

 フロベールはその後も『感情教育』、『ブヴァールとペキュシェ』という現代物においては、持ち前のアイロニーを前面に押し出すわけだが、いかにもそのような作品の執筆は作者にとって苦労多いものだったに違いない。1875年、心労たたって彼は『ブヴァール』の執筆を一時中断するのだが、その時、「文をつくるということが自分にまだできるのかどうかを知るために」書き始められたのが短編「聖ジュリアン伝」であり、五ヶ月でこれが仕上がると、続けて「素朴なひと」、「ヘロディアス」が執筆され、1877年には単行本にまとめられ、『三つの物語』というタイトルがつけられた。いずれもキリスト教と関連する主題を取り上げ、三作によって現代・中世・古代の通史をなす短編集となっている。

 特徴的なのは、これがいわば「気晴らし」のために書き始められたこともあってか、ここではフロベール特有のアイロニーが薄まり(皆無ではない)、その分、登場人物に寄せる作者の共感(これも以前の作品に皆無だったわけではないのだが)が感じられ、双方のバランスがよく保たれている点、他の長編に比べてずっと「読みやすい」作品となっている。その意味で、フロベール入門には『ボヴァリー夫人』よりも『三つの物語』のほうがはるかにうってつけだと思われるのだけれど、これまで簡単に入手できる翻訳は岩波文庫山田九朗訳のみで、しかしこれは旧字体の難物であり、その他には懐かしの福武文庫に太田浩一訳があったのだが、言うまでもなくこれも姿を消して久しい状態だったのである。そこにこのたび、

 フローベール『三つの物語』、谷口亜沙子訳、光文社古典新訳文庫、2018年

の新訳が刊行されたことは、フロベール(と私はこだわって綴るけれど)の一ファンとしてことのほか嬉しい出来事だった。しかもその喜びは、実際に本書を手に取ってはるかに倍増することになった次第である。訳文は実に流麗で読みやすく、よく練られたものであることがはっきりと見て取れる。それに加えて、「解説」および「訳書あとがき」が素晴らしいのだが、この手の文章でこれほど感動させられたのはいったいいつの何以来だろうか。

 ここで翻訳者はそれぞれの作品の特徴を丁寧に挙げているが、とりわけ「ヘロディアス」の難解さとそこで賭けられているものについての考察は興味深く、そこから導き出された注釈の方針の説明はたいへん理に適っている。さらに、各作品を結ぶ共通点からフロベールの内に秘められた「もっと徹底して素朴なもの」(256頁)へと話を進めていく展開は見事であり、読み応えがある。これは疑いなく、翻訳という営みを通して原文と、そして作者と深い交流をなしえた人にのみ書ける文であって、そもそもそこまで到達できないなら翻訳とはなんだろうと思わせられる、そんな文章だ。そんな訳者だからこそ、フロベールはしばしば「もっとも決定的な語を避けることによって書く」(275頁)という発見を語ることもできたに違いなく、作品に対して誠実かつ心を込めて接する翻訳者の姿勢に、心から敬意を表したいと思うし、この仕事の価値が広く認められることを強く願わずにいられない。

 それぞれの作品について、この「解説」以上に言えることなど私にはとくにないし、その必要もさして感じない。個人的にはなんといっても「素朴なひと」(山田九朗訳は「まごころ」、太田浩一訳は「純なこころ」)に思い入れが大きく、何度読んでもこれはよい小説だという確信は揺るがない。どう考えてもフロベールは単純素朴な信仰心をもはや抱くことができない「現代人」であったはずだが、そんな彼が、一貫して無欲かつ謙虚に生きるがために、その人生があたかも聖人伝であるかのような、そんな純朴な女性の生涯を語ってみせたのだった。「これは皮肉などではまったくない」と作者自身は述べているが、そんなことはなく、フェリシテが剥製となったオウムのルルーをやがて聖霊と混同し、せっせとオウムを拝む「偶像崇拝」(76頁)を習慣とするに至るあたりに、作者のアイロニーはやはり現れていると言えるだろう。

 けれども、いやだからこそ、あの結末の美しい一文が存在する。現代において聖者伝はありえないから、フェリシテがジュリアンのようにキリストによって救済されるような場面をフロベールは書くことはできなかった。フェリシテが最後に見るのは、だからオウムの幻影でしかない。

 だが少なくともオウム(が象徴する何か)はある。それが「現代の聖者伝」がぎりぎり提示しうる希望だとフロベールは語っているかのようだ。たかがオウム、されどオウム。そのオウムの内に何を見るのかは、読者一人ひとりに委ねられているのだろう。

 帯には「フローベールの最高傑作」とあるが、その言葉には賛同できない。最高傑作の呼び名は、やはり『ボヴァリー夫人』か『感情教育』にこそ(恐らくは前者に)、与えられてしかるべきものだ。だが『三つの物語』は彼が残し得た最も美しい作品であると私は思うし、19世紀フランス文学全体の中でもその美しさは稀なるものであるだろう。

 本当に、心から、この本を手に取る人の一人でも多いことを、そしてフロベールの素晴らしさを知ってもらえることを、一仏文学の徒として願っています。

 

 6年間テレビ局で仕事をした後でデビューした、ジュリエット・アルマネ Juliette Armanet のアルバム『恋人』Petite Amie (2017) より、「独りの愛」"L'Amour en Solitaire"。

www.youtube.com

Où es-tu mon alter

Où es-tu mon mégot

Pour moi t'étais ma mère mon père mon rodéo

Je traverse le désert

L'Amour en Solitaire

 

Reviens-moi mon alter

Reviens-moi héros

Je veux retrouver ma terre ma bière et mon tricot

Plus traverser le désert

L'Amour en Solitaire

("L'Amour en Solitaire")

 

あなたはどこなの

もう一人の私は

私にとってあなたは母、父、私のロデオだった

私は砂漠を横断する

独りの愛

 

戻っておいで

もう一人の私のヒーロー

私は見いだしたい、私の土地、ビール、編み物

もう砂漠は横断しない

独りの愛

(「独りの愛」)