えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『蘭学事始』/ZAZ「コム・シ、コム・サ」

『蘭学事始』

 昨日、久し振りに大阪でマラルメの読書会に参加。テオドール・ド・バンヴィルについての一文を読む。

 その朝、たまたまテレビで杉田玄白の番組を見た。

 杉田玄白前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと決意し、顔を合わせてはオランダ語の意味をあれこれと議論し、これを「会読」と呼んだ。テレビの解説によれば、それまで漢方医学においては、一子相伝で師から弟子に奥義が伝えられていたから、そんな風に本を囲んで議論するというようなことはなかった。しかるに杉田玄白以降、「会読」が蘭学の基本の形となっていった、と大略そういう話であった。

 そこで私、なるほどと膝を打ったのである。この「会読」の伝統が、たとえばあの『福翁自伝』で語られる伝説の適塾を経て、やがて蘭学から英仏独学に移っても途絶える事なく、「読書会」の名の下に現在にまで続いている。うむ。つまり日本で「原書講読」を行っている我々は皆、杉田玄白の直系の弟子であって、250年に及ぶ伝統を受け継いでいるということなのだ。

 もちろん、こういうのは一種のフィクションであって、直接の伝播関係はないかもしれないし、途中に断絶もあったかもしれない。しかしまあ、伝統とは「我こそは受け継げり」と思う者のいるところにのみ存在するのであり、人間は、自分を越えた大義を担っていると思いこむ時に元気の出る生き物だ。だからまあ「弟子」を僭称しても、きっと罰は当たるまい。

 というわけで、早速に『蘭学事始』を開いてみると、実に良いことが書いてある。漢字を出すのが面倒なので原文を割愛し、物足りないが現代語訳のみを引用。

 過ぎ去った ことをふりかえってみると、まだ『解体新書』が完成にいたらない前のことであるが、このように勉励して二、三年も過ぎて、ようやく、その事情も理解できるようになるにしたがい、しだいに砂糖きびをかみしめるように、その甘味がわかるようになってきた。これによって昔からの誤りもわかり、そのすじみちを確実に理解できるようになっていくことが楽しく、会合の日は、前の日から夜の明けるのを待ちかねて、ちょうど女子供が祭見物にゆくような気持ちがした。

杉田玄白蘭学事始』、片桐一男全訳注、講談社学術文庫、2000年、49頁)

  砂糖きびを噛みしめるように味わった、という比喩も素敵(にしてよく分かる)が、「会期の期日は、前日より夜の明るを待兼、児女子の祭り見に行くの心地せり」(114頁)という一文が、しみじみ微笑ましい。

 知の欲望に身を焦がすような思いをすることがなくなったら、そこで学問は終わってしまう。初心を思い出すべく、「知りたい、分かりたい」という情熱に駆られていた玄白たちの、その興奮の熱気に遠く思いを馳せた。

 

 わりとしつこくZAZザーズを聴き続ける。これも Recto verso (2013) より、"Comme ci, comme ça"「コム・シ、コム・サ(まあなんとかね)」。

www.youtube.com

Je suis comme ci

Et ça me va

Vous ne me changez pas

Je suis comme ça

Et c'est tant pis

Je vis sans vis-à-vis

Comme ci comme ça

Sans interdit

On ne m'empêchera pas

De suivre mon chemin

Et de croire en mes mains

("Comme ci, comme ça")

 

これが私

これがいいの

あなたに私は変えられない

これが私なの

おあいにくさま

人の目なんて気にしてない

まあ なんとかね

しばりもない

じゃましようたって無理

私は私の道を行くんだから

自分の力だけを頼りに

(「コム・シ、コム・サ(まあなんとかね)」人見有羽子翻訳)