えとるた日記

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『ソヴィエト旅行記』/ヴィアネ「大きらい」

『ソヴィエト旅行記』


 こんな本まで出るとは、いったい今はいつなんだろう、という不思議な気分を抱きながら本書を手に取った。

 ジッド『ソヴィエト旅行記』、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 1936年、66歳になるジッドは2ヶ月かけてソヴィエトを旅行し、帰国後に『旅行記』を発表、スターリン体制への批判を表明した。これがフランスの、特に左翼陣営から批判を浴びることになり、翌年、ジッドは『ソヴィエト旅行記修正』において、批判に対する反論を行う。本書は、この両作品を合わせた新訳である。

 旅立つ以前のジッドはソヴィエトに対して大きな希望を抱いていたが、実際に現地を見て回る中で、その期待は失望へと変わる。極度の貧困があちこちに見られること。共産主義の理念にもかかわらず、明らかに貧富、階級の差が存在していること。人民は実情を知らされず、自分たちが一番だという自己満足に浸っていること。コンフォルミスム(順応主義)がはびこり、誰も体制に対して批判ができないこと。つまりはスターリン一人の独裁国家であること……。

今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、ほかのどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと思う。

(ジッド『ソヴィエト紀行』、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2019年、85頁) 

  ジッドの口調は決して激しいものではなく、むしろ慇懃に言葉を尽くして語っているという印象である。彼がここに述べていることは、こんにち我々がソ連に対して抱いている一般的なイメージとほとんど相違がないように見えるし、だから、その批判はしごく真っ当で、常識的であるように思える。

 にもかかわらず、発表当時、多くの人がジッドを裏切り者として「罵倒」した。なかでもロマン・ロランからの「悪罵」(160頁)はこたえたと、『修正』の冒頭に書かれているが、そうした歴史的事実のほうに、むしろ、今の読者は驚かされるのではないだろうか。

 ロシア革命以降、ヨーロッパにおける左翼の人々にとって、ソヴィエト連邦は、人類の理想が今や実現せんとしている憧れの国だったし、20年代から30年代には、実際に共産党に入党する芸術家も少なくなかった。それは歴史的事実であるのだが、今となっては、そうした事情を実感をともなって理解することはなかなか難しい。なぜそんなことが素朴に(としか見えない仕方で)信じられたのか、と疑問に思われて仕方ないのだ。

 その意味で、こんにち本書を読むということは、この作品が書かれた背景込みで、20世紀前半という時代を振り返ることを意味するだろう。訳者による丁寧な「まえがき」と「解説」および「あとがき」は、そのために不可欠といってよいものであり、とても貴重である。そのお蔭で、1930年代という時代の「空気」を感じ取ることができるように思う。

 ソ連への旅行は最上級の接待旅行であり、行く先々で歓迎され、すべての費用はソ連持ちで、あちこちで豪勢な宴会が開かれたということを、ジッドは『修正』において打ち明けている。にもかかわらず、歯に衣着せずに率直にソ連の実情を描いてみせた彼の姿勢は、なんと言っても称賛に値するだろう。彼はイデオロギー固執することがなかった。特定の党派に肩入れせずに、自身の独立独歩の立場を貫いたのだ。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた同時に党から離れる。

(同前、243頁) 

  思想よりも人の側に、強者よりも弱者の側につく、その揺るぎない姿勢のゆえに、ジッドは誠実な文学者であり、そして正当な人文主義者でありえている。そのように言ってよいだろう。16世紀、人文主義の祖エラスムスは、寛容の姿勢を貫くことにより、カトリックからもプロテスタントからも批判された。ジッドもまた、『コンゴ紀行』における植民地主義批判によって右から、ソ連批判によって左から攻撃された。人文主義者は多くの者から煙たがられる宿命にあり、彼の声は、その時代にあっては必ずしも大きな力を持たないかもしれない。

 だがそれでも、時代を超えて耳を傾ける価値があるのは、彼の言葉のほうなのだ。『ソヴィエト旅行記』の新訳は、だから出るべくして世に出たのだと、おのれの不明を恥じつつ、そのように言いたい。

 私はジッドは大の苦手であり、彼の小説を読み返す気はさらさらない。それでも、『ソヴィエト旅行記』は読んでよかったと率直に思うし、作家の真摯な姿勢に、静かに敬意を払いたいと思う。

 

 ふと思い出したように Vianney ヴィアネを聴く。2014年の "Je te déteste"「大きらい」。

www.youtube.com

 Quand j'y pense

Rien ne la panse

La béance que tu as laissée

C'est vrai que quand j'y pense

Faut que j'avance

La séance est terminée je sais, alors...

 

Alors je laisse aller les doigts sur mon clavier

Je viens gifler mes cordes plutôt que ton fessier

Je crie de tout mon être sur un morceau de bois

Plutôt que dans tes oreilles qui n'écoutent que toi

D E T E S T E, je te déteste

D E T E S T E

("Je te déteste")

 

考えてるときは

手の施しようがない

君が残したぽっかり風穴

そうだ、考えてるときこそ

前に進まなきゃ

堂々巡りは終わり、だよね……

 

おもむくまま鍵盤に指を走らせればいい

和音を叩く、君のお尻を叩く代わりに

木っぱにぼくのすべてをのせて叫ぶんだ

自分のことしか聞いてない君の耳に向かって叫ぶ代わりに

ダイキライ、君なんか大きらい

ダイキライ

(「大きらい」翻訳:丸山有美)